最終話 ありがとう

 翌日、目覚めると、雨が降っていた。また雨か、と思う。手足が妙に痒く、袖や裾を捲ってみると、蚊に刺された跡があった。この時期は冬眠しているのではなかったのか?

 ごそごそと周りで蠢く音が聞こえた。一瞬、脳裏に回転灯の光が明滅した。警官たちが駆け寄ってくる妄想が頭をもたげる。しかし、現実はそうではなかった。

 橋の下には、自分以外のホームレスも眠っていたようだった。昨日は暗かったので、気付かなかっただけなのだろう。そのうちの一人――明らかに酔っ払っている男が話しかけてきた。最初、不明瞭な発音でなにを言っているのか分からなかったが、目が覚めるにつれ、聞き取れるようになった。

「お前、警察に追われてるんだろ? 金、寄越せよ。そうしたら、黙っててやるから」

 俺は、こんなホームレスに脅されているのか。幸いなことに、この男は一人だった。組み伏せることも可能だろう。砂川は口の端を歪めて笑った。

「生憎、俺も金は持ってないんでね」

「そんなこと言ってたら、お前、捕まるぞ。それでもいいのか。俺はお前のこと、ニュースで見たんだ」

「警察がお前のことを信じると思うか?」

 男は無言になった。なんだか可哀想になり、バックパックから財布を取り出すと、一万円を男にくれてやった。

「いいのかよ?」

 震える指で、一万円を受け取った。その指はイボだらけで、かじかんで赤くなっていた。

「くれてやるよ。ただし、他言無用な」

「ありがとう」

 そう言うと、男は橋を出て、去って行った。きっと、近くのコンビニにでも行くのだろう。

 ぼんやりと雨を眺めながら、自分に対して、捜査特別報奨金が出ていることを思い出した。青田と石岡の陰険な顔が、頭に浮かぶ。奴が警察署に行って、俺を突き出す可能性もある。早く、ここを離れたほうがいい。

 枕代わりにしていたバックパックを背負うと、橋の下から出た。傘の類は持ち合わせていないので、雨曝しになることは避けられない。早足で次の街へ向かい、道中のコンビニで朝食と傘、タオルを購入した。店内から出ると、タオルで濡れた髪を拭いた。今日はやらなければならないことがあった。それも、早急に。

 携帯のマップアプリを使って、近くの漫画喫茶を検索した。かなり遠い距離に一件だけ見つけた。タクシーを使いたかったが、このあとに使う金額を考えると、どうしても歩かなければならないらしい。

 二時間以上歩いて、目的の漫画喫茶に辿り着いた。まだ時間が早いこともあり、店の前では十人ほどの客が出待ちをしていた。平日であるのにも関わらず。きっと、ニートやフリーターなのだろう。

 九時になると、店が開いた。そのまま店内へ入っていく。フロントには、背の高い四十台過ぎの男と、少し老けている茶髪の女が立っていた。

 店員とやり取りをする中で、初回利用時には会員登録が必要だと言われた。身分証明書も必要らしい。男は免許証でもいいと言ってくれた。

 財布から免許証を取り出して、顔写真を眺めてみた。ニュースで公開されている、砂川耕司の写真とは、微妙に似ていないように見えた。そもそも、名前の欄には小谷将と書かれているので、きっと誤魔化せるだろう。

 男に免許証を手渡した時、動悸が一気に早くなった。大丈夫だろうか?

 なにごともなく、男は手続きを終えると、会員専用のカードをこちらに手渡した。そこには小谷将と、確かに印字されていた。

 砂川は店員に、シャワーを利用したいと申し出た。すると、座席料と三百円が必要だと言われた。その他にも、バスタオルやクレンジング、洗顔フォーム、歯ブラシなどを利用するには、追加で代金を支払わなければならないようだった。ボディソープやシャンプーは備え付けらしい。コンビニで購入したタオルは濡れそぼっていたので、備品も購入しておいた。女は備品と一緒に、ドライヤーを砂川に手渡した。

 シャワー室は狭く、大人が一人入れるだけのスペースしかなかった。自分でも不快感を覚えるほど、汗の臭いや体臭がひどくなっていたので、念入りに体や髪を洗っておいた。伸びていた髭をしっかりと剃り、髪を乾かした。

 ドライヤーやタオルなどを受付に返却したあとは、個室に入った。インターネットを使って、神戸から上海までのフェリーの予約をした。小谷将としてのパスポートは持ち合わせているので、トラブルがなければ乗り込めるはずだった。

 海外逃亡。選択肢としてはそれしか道はなかった。そこで金を稼ぎ、また整形をすれば日本に戻ることも出来るだろう。

 手続きを終えると、深い溜息を吐いて、暗い天井を見上げた。

 なぜ、自分はここまで必死になって、生きようとするのだろうか? 何人もの人を殺してまで――。

 心身は疲れ切り、自首したい、という気持ちも強くなっていた。

 砂川は首を振った。

 それでは今までの努力が水の泡ではないか。警察に捕まるということは、小谷が犬死にしたということを意味する。

 絶対に、逃げ切るんだ。それしかないんだ。誰だって、捕まりたくはないんだ。死刑になんかなりたくないんだよ。

 ああ、神様。どんな方法でもいい。俺に、天罰を下してはくれないか。

 バックパックの中から拳銃を取りだして、銃弾の残りを確認した。銃弾は一発だけ残っていた。拳銃を仕舞うと、フロントに行って金を払った。店員はまだ時間が沢山残っていると言ってくれたが、もうこれでいい、と説明した。

 ここに向かう途中、小さな公園を見つけていた。最後の場所は、そこがいいかもしれない。

 漫画喫茶を出ると、パトカーのサイレンがやかましく鳴り響いていた。きっと、一万円をくれてやったホームレスが、警察署に行って、俺のことを話したのだろう。駅やバス停など、やって来そうな場所は、全て包囲されているはずだ。もう逃げられない、と思った。

 公園に向かう途中、家族連れと擦れ違った。二つの大きな傘と小さな一つの傘。三つの傘が仲良さそうに並んで歩いていた。手を繋いでて、とても楽しそうだった。麻友との間に子供が出来たら、あんな風に手を繋いで歩けたのかな、と思った。そう考えると、とても悲しい気分になった。

 砂川は傘を投げ捨てて、全身で雨を浴びた。温かい雨だった。己の罪が洗い流されていくかのような感覚があった。

 ポールを抜けて、公園の中に入った。雨が降っているので、誰もいなかった。ベンチに腰かけていると、パトカーが止まり、警官が二人、公園に現れた。

 バックパックの中から拳銃を取り出すと、こめかみに宛がった。

 警官はやめなさい、と言った。

 みんな、ごめん。ありがとう。

 砂川は微笑むと、静かに引き金を引いた。

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逃亡犯 じゃがりこ @justbecause1212

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