第25話 阿部茜

「ラーメン屋に飯でも食いに行くか?」と小谷が言った。彼にそう言われると、まるで学生時代に戻ったような気分になる。

 いつもの習慣で掛け時計を探すが、あまりにゴミだらけなので、時計がどこに置いてあるのかさえ分からない。腕時計で時間を見ると、もう四時半を回っていた。出来れば、外に出歩きたくはなかった。大学時代に飲食店でアルバイトをしたことがあったが、特徴的な客の顔は、意外と長く覚えているものだ。

 砂川は首を振った。「いいや、出来るだけ出歩きたくないんだ」

「そうビビるなって。行くぞ」

 小谷はゴミ山の中から財布を見つけ出すと、玄関口に歩いて行った。思わず溜息をついた。仕方がない。居候させてもらうのだから、少しは従うことにしよう。

 靴を履いている彼に話しかける。

「今日はお前の奢りか?」

「ん? そうだな。百万円あるし、別に奢りでもいいぞ」

 二〇三号室から外に出ると、目の前にベージュ色の手摺りが見えた。建物の前には、さらに白い外壁のアパートがあった。駐車スペースはかなり広い。もう使われていないのか、薄汚れたバスが三台ほど、ブロック塀のところに止まっている。

 カン、カン、と鉄の音を響かせながら階段を降りる。下って左側に、白線で長方形を引いただけの簡易的な駐車場があり、そこには黒塗りの大型車が止まっていた。

「これ、お前の車か?」

「そうだ」と小谷は応えた。

 どうして、素行の悪い人間は総じて、車が好きなのだろうか?

「かなり高かったんじゃないのか?」

「そうだな。ローンを組んで、毎月支払ってるよ。食費も削ってな。これだけが俺の唯一の趣味だ」

「なんていう車?」

「トヨタのランドクルーザー。価格は六百万円くらいだな」

「へえ」

 小谷の自慢気な説明は続く。ランドクルーザーは世界でも人気があり、かつ有名なSUV(スポーツ・ユーティリティ・ビークル)で、海外でも超最高級SUVとして、一千万円ほどで取引されているらしい。

 階段を下ったところから左手に周り、直線の細い道を歩いて行く。大家がよく掃除しているらしく、ゴミの類は全くと言っていいほど落ちていなかった。

 コーポの前には巨大な建物があり、建物を縁取るように、夕方の陽光が射し込んで来ていた。

 一体、どんな建物なのだろう?

 角を曲がったところにも、駐車場があった。白線を引いただけの代物ではなく、かなりゆとりのある敷地面積である。

 民家の合間を通る道路を抜けて、巨大な建物の正面に出る。どうやら、図書館のようだった。図書館の前には、小谷の言っていたラーメン屋が建っている。道路に続くようにスロープ状になっており、二人はそこを登った。

 ラーメン屋に入ると、店員が応対した。二十代前半の男で、髪は短く、清潔感があった。

 砂川ははっとした。部屋の中でマスクを外して、そのままにしていたのだ。

「大丈夫だって」砂川の考えを見抜いたように言った。「まだ指名手配されてねえし、そもそもそこまで整形したら、知り合いでも分からねえよ」

 店の中は空いており、すぐにカウンター席に通された。そこではチャーシューラーメンを注文した。油の乗った麺とスープは美味く、久しぶりにものを食べたように、新鮮味が感じられた。



 その日の夜は、よく寝付けなかった。

 明日は運転免許証の取消処分者講習に行かなければならなかった。それも、砂川耕司としてではなく、小谷将として、だ。欠落期間は満了しているので、その点については問題はなかった。

 大学一年の時に免許を取ってから、数え切れないほどの時間を運転に費やしてきたので、試験に落ちる気は全くなかった。教習所に通う必要もない。つまり、試験場での一発試験を受けることになるのだ。

 流れとしては、各都道府県の試験場で仮免許試験を受けることになる。適性検査、仮免学科試験、技能試験……と続いている。

 そのあとは、ようやく本免許試験となる。手数料は五千円以上と、馬鹿にならない金額を払わなければならない。何度も試験を受ける手間や、小谷将ではないと発覚するリスクを考えると、どうしても一発で合格する必要性があった。

 小谷の説明によれば、免許を最短で取得するためには、自動車の試験ではなく、原付免許証の試験のほうが簡単らしい。原付を運転したことがないので、諦めるしかなかった。

 暗闇に映る天井を見据えながら、大きく息を吸って、吐いた。

 くたびれた布団では小谷が寝ている。男二人が同じ布団で眠るのは抵抗があったので、砂川は座布団を枕にして、畳の上に横たわっていた。

 俺は今まで、何千回と車を運転してきている。試験に落ちるわけがない。絶対に大丈夫だ。

 小谷将が一度、免許取り消しになっているだけあって、試験の採点はかなり厳しいものになると、見積もっておいたほうがいいかもしれない。

 ラーメン屋の帰りに百貨店に立ち寄り、アラーム音が大きいと評判の目覚まし時計を購入した。

「携帯で充分じゃねえか」と小谷が言った。

「いいんだ。目覚まし時計のほうが起きられるんだよ」

 取消処分者講習や一発試験に遅れるわけにはいかない。やはり、この買い物は必要だろう。

 コーポに帰ると、部屋の中にあったポテトチップスを摘まみながら、酒を片手に、昔話に花を咲かせた。

「そういや、お前が好きだった荒浜涼子。今はなにしてる?」

「旅館の女将だよ。仙台漁港の近くにある「あらはま」って店だ」

「へえ。会いに行ったような口振りだな」

「整形する前に、一度だけ泊まりに行ったよ。良い店だった」

「儲かってんのか?」

 砂川は首を振った。

「いいや、一六〇〇万もかけて新築したそうだが、客の呼び込みには失敗したらしいな。人生、そうそう上手くは転ばないわけだ」

 話の矛先は、昔の同級生にへと飛んだ。高校時代は色々なことがあり、一風変わったキャラの人間が多かったように思える。

「阿部茜、覚えているか?」小谷が聞いた。

 砂川は軽く笑った。

「ああ、あのストーカー女か」

「そう。そいつだよ、そいつ」

「あいつ、今、なにしてんの?」

「なんか、転校した高校で、またいじめを受けたとかなんとかで、引き籠もっているそうだ。MMORPGに嵌まっていて、一日中、ゲーム三昧らしい」

「やっぱり、そんな感じになってるのな。まあ、ろくな大人にならないとは思ってたけどな」

 小谷も笑った。「人殺しのお前がそれを言うかよ」

「俺のは事故みたいなもんだよ。阿部は自分の意思で引き籠もっているわけだろ? 俺だって、麻友があんなに俺を罵倒しなけりゃ――シッ」

 遠くのほうからパトカーのサイレンが聞こえてきていた。数台いるらしく、異様な不協和音を奏でている。

「なにか、事件でもあったのかな?」と小谷が言った。

 砂川は嫌な予感がした。

「分からない。とうとう、麻友と久保木の死体が見つかったのかもしれないな。あまりにも早すぎるような気がするが」

「ま、なにがきっかけで死体が見つかるなんて、分かったもんじゃねえから。俺も、山に埋めた将の死体が見つからないかどうか、ビクビクして暮らしてるよ。二〇一○年に、殺人罪の公訴時効が廃止されたからな――。もしも、二人の死体が見つかったらどうするんだ? ここから逃げるのか?」

 少し考えてから、言った。

「分からない。お前が良いのなら、まだこの部屋にいさせて欲しい。運転免許証だけでも、小谷将の名前で取っておきたいからな」

「別に、俺の部屋にいても構わねえぜ。大家が二人いるんだ。一人目が酒井って名前の禿げたおっさん。二人目が玉城ってババアだ。このババアにはマジで関わるな。ろくなことにならねえ」

「なにかあったのか?」

「陰湿なババアでよ、俺が出したゴミ袋の中身を漁って、燃えないゴミとかを探しやがるんだ。そんで、鬼の首を取ったような顔をして、俺に注意をしてきやがる」

「ああ、いるよな。そういう頭のおかしい大家」

「お前を見つけたら、絶対に目くじら立ててくると思うぜ。とにかく、注意だけはしておくんだな。このアパートの契約事項として、恋人や友人などの同居者がいた場合、退去させられるんだ」

「なるほど。大家に、部屋から出るところを見つかったら、まずいってことか」

「酒井ってじいさんは、無害だ。しかし、玉城のババアはヤバイ。あいつは性格がねじ曲がってるから、嫌いな居住者には嫌がらせしてくる」

「小谷は嫌われてるのか?」

「ああ。理由は分からねえけどな」

 小谷はゴミ山の上に置いた、砂川が買ってきた目覚まし時計で時間を確認した。

「もう夜も遅いし、お互いに寝たほうがいいんじゃねえか? 俺も仕事があるしよ」

「そうだな」

「先に風呂に入らせてもらうぜ」

 押し入れから下着とタオルを取り出して、風呂場にへと消えて行った。

 砂川は彼を見送ったあと、缶ビールの底に残った少量のビールを飲み干した。


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