第24話 Nシステム
指定された住所に到着した。軽量鉄構造の二階建ての共同住宅だ。アパートというよりはコーポだろう。賃料が安そうだな、と思った。
ずっと休まずにロードバイクを漕ぎ続けてきたため、体が汗ばんでいる。ホットフラッシュの症状のように、頭の中がぼんやりとしていて、熱があるように思えた。
一旦、ロードバイクを柱に立てかけて、バックパックとクラブケースを道路に下ろした。腕時計で時間を確認すると午後四時過ぎ。ここ周辺は曇り空ではなく快晴だった。空からは夕方らしい眩い光が容赦なく射し込んできている。今日は昨日と比べて、比較的暖かいように思える。
電話をして、小谷を呼び出そうとしたところ、不意に二階の扉が開いた。視線を向けると、小谷が手摺りから顔を出した。
「よお、待たせたな、相棒」
丸刈りで眼鏡をかけている。背丈は一七〇ほどと平均的。体格も普通の男と大して変わらない。しかし、こいつの残忍さと容赦のなさは、他の連中より頭一つ分抜きんでている。学生時代、こいつにいじめを受けて、人生を粉々にまで破壊された被害者も数人いた。つまり、根っからの悪党ということである。
バックパックとクラブケースを背負い直し、ロードバイクを手に、鉄製の階段を上っていく。所々メッキが剥がれており、鉄っぽい臭いが鼻を突いた。踏む度に、カン、カン、と音がする。
小谷と対面する。一年振りだろうか? 同窓会で一度会ったきりだった気がする。仕事が忙しく、学生時代のように遊ぶことはなくなっていた。たまに電話を交わすこともあったが、大体はそれっきりである。
「久しぶりだな」と砂川は言った。「こんな形で再会したくはなかったけどな」
「妻を寝取った男を殺したんだって? やるじゃねえか」
砂川ははっとして辺りを見渡した。
「馬鹿。声がデケえよ。他の奴らに聞こえたらどうする?」
小谷はさも可笑しそうに笑った。
「それもそうだな。早く部屋に入れよ。二〇三号室だ」
彼が扉を開けたので、コンクリ製の床に置いていたロードバイクを再度、手で持って、後に続いた。
ロードバイクを玄関に置くと、バックパックを背負い直した。靴を脱ぐと、部屋の中に入っていった。
部屋の中にはゴミが溢れていた。
テーブルの上には大量の空き缶と空のペットボトル、酒瓶。床には雑誌や漫画の類や、オナホールの空箱、ゲームカセットのケース、中身の入ったインスタントラーメンがいくつか。折り畳まれた段ボール。据え置きパソコン。ゴミ袋の山。異様な臭いを放つ布団、よれよれの敷き布団、枕。
「なんだ――こりゃあ」砂山は思わず声を上げていた。「なんだか、ひどい臭いだ。窓を開けるぞ」
我慢仕切れずに窓を開けると、新鮮でピリリと冷たい空気が中に入ってきた。すでに汗は乾いていた。
「部屋の掃除とかしないのか?」
「しねえな」小谷は悪びれずに言った。
「普通は人が来る時はするものだぜ」
「人殺しがそれを言うか? まあ、俺も人のことを言えないがな」小谷は座布団を寄越してきた。ゴミ類を壁の方に寄せる。「まあ、とりあえず座れや。てめえの話を聞いてやろう。匿ってやるかどうかはそれからだ」
砂川は渋々頷いた。酷い部屋だが仕方がない。刑務所にぶち込まれるよりは千倍マシである。
「えっーと、誰を殺したって?」
小谷は眼鏡をくいっと持ち上げて見せた。
「久保木英彦」
「誰だそいつは? なにをやっている?」
「自宅近所で美容院をやっていた男だ。もうニュースになってるぜ。誰かが警察に失踪届を出したんだろうよ」
「ニュースに? マジかよ」
小谷はゴミの山に手を突っ込んで、テレビリモコンを探し出した。電源をつけて、ニュース番組に変える。偶然にも、失踪した久保木についての報道をしていた。話が進みやすいので、運が良かった。
「おったまげー。マジで殺したんだな。すげえ。驚いた。てっきり冗談かと思った」
「冗談でわざわざロードに乗って、宮城県まで来るかよ」
「なんでロードで来た? 車を使えばいいだろ? 運転免許証、持ってねえのか?」
「持ってるよ。でも、高速道路や一般道路には、Nシステムっていう装置が設置されていて、迂闊に運転出来ねえんだ」
「Nシステム? なんだ、そりゃ」
「Nシステムってのは、自動車ナンバー読み取り装置のことだ。運転者の顔とナンバーを自動的に撮影して、指名手配犯とかの場合、警察に連絡が行くようになってる。小学生の頃、地元で殺人をやった指名手配犯が彷徨いているって噂、流れたことがあっただろ? 覚えてねえか?」
「あー。女子高生を誘拐して、山に埋めた奴だっけ?」
「そう。それだ」
子供の頃は純粋だったから、ニュースで画面に映し出された被害者の顔を見て、途方もない恐怖を覚えたものだった。
当時の父親との会話を思い出す。
「人を殺す奴ってのは、一体、どんな奴なんだろうな? 俺には想像も出来ない」
「きっと、ろくでもない奴だよ」と砂川が言った。
「そうだな。人殺しは全員、死刑にしちまえばいいんだ」
「そうだね。僕もそう思う」
「人殺しにだけは絶対になるなよ。頼むぜ」
「うん。分かった」
現実の自分は、妻と寝取った男を殺して、死体遺棄までしてしまった。極刑は免れないかもしれない。
「それで? 殺したのは久保木って奴だけか? 奥さんはどうした? 綺麗な人だったような」
「殺した」
「はあ?」小谷は少し呆けた表情になってから、どっと笑った。「なんだ、奥さんも殺しちまったのかよ。マジの指名手配犯じゃねえか。冗談で言っているんじゃねえよな?」
「冗談じゃない。カッとなってやっちまったんだ」
「使われなくなった施設に捨ててきたんだって?」
「ああ。案の定、見に行ったら蠅がうようよしてて、蛆が大量に沸いてたよ。まあ、すぐに見つかるとは思わないけどな」
「つうか、お前、なんか顔が違くないか? 二重になってる」
「ああ」砂川はマスクを外して見せた。
小谷は顔を見て、手を叩いて笑った。
「整形までしたのかよ! 本当に殺したんだ。今、確信したよ」
「うん。殺したんだ。だから匿ってくれ。もちろん、ただとは言わない。金なら払うよ」
「いくらだ?」
途中のコンビニで、久保木の指を使って引き落としてきた百万円の束を、リュックから取り出す。封筒には入っておらず、そのまま財布に突っ込んでいたものだった。
小谷は札束を受け取ると、指に唾をつけて、枚数を数え始めた。少し経ってから、彼は頷いた。
「丁度、百万円あるな。ありがたく受け取っておいてやるよ」
「ああ。頼んだ」
「お前が来て、俺も運が良かったよ。俺も一人、やっちまったからな」
「お前も人を殺したのか? 誰をやった?」
「弟だ」
「えっ、弟? 将を殺したのか?」
小谷将。高校時代、小谷の実家に遊びに行った時に、何度か一緒に遊んだことがあった。背が低く、童顔で、優しい性格をしていた覚えがある。
「なんで将を殺したんだよ? あいつ、良い奴だったじゃねえか」
小谷は首を振った。
「良い奴だったのは、子供の時の話な。あいつ、頭が悪いから、良くない奴が通う工業高校に行く羽目になったんだよ。それから、急激に背が伸び出して、筋トレとかも始めたみてえでな。家庭内暴力ってやつ? オヤジも母親も、手がつけられなくなっちまったんだ。マジックマッシュルームっていう、幻覚キノコもやって、警察に捕まってるからな」
「家族を守るために、殺した?」
「家族を守る? 違えな。たまたま喧嘩になって、包丁でグサッとやっちまっただけだよ」
「それでどうした? どこかに隠したのか?」
「ああ。車の後部座席に死体を積んで、近くの山に埋めてきたんだ。まだ、見つかってない」
「親御さんはどうした? 一応、自分の子供なんだし、心配してるんじゃねえのか?」
「失踪したってことになってる。あいつが乗り回してたバイクと、あいつの荷物を県外に持っていって、捨ててきた。失踪宣告書もあいつの字を真似して作った。両親は失踪したと思い込んでいるみてえだ」
「さっき、俺が来て運が良かったって言ったけど、どういう意味だ?」
「ああ。それな。お前に、小谷将をなりすまして欲しいんだよ」
「なりすます?」
「そう。失踪するにおいても、どこかに住んでいる必要があるだろ? 両親は将のことをどうしようもない屑だと思っていて、わざわざ調べたりはしない。本名で生きていると、些細なきっかけで、素性がバレるとも限らない。俺も、警察があいつのことを本格的に調べ始めると困る。だから、将になりすまして欲しいわけだ」
「……」
砂川は無言になった。最初は言っている意味が分からなかったが、将になりすますことが出来るというのは、むしろ好条件かもしれない。本名を使わずに生活出来るメリットは計り知れない。
「法的に他人として生活するために必要なものが五つある。一つ目、住民票。二つ目、国民健康保険証、三つ目、印鑑、四つ目、印鑑登録証明書、五つ目、運転免許証。よく考えてみろ。最後の運転免許証以外、顔写真が必要なものはなにひとつねえんだ。両親が将に興味がない以上、お前が将になりすましていても、本物か偽物かどうかを調べようとする奴はいない。市役所の連中も、確かめる手段はない。つまり、なりすませる。将は生きていることになるんだ」
小谷は続ける。
「お前と将は、性別が同じで、年齢は一歳しか違わない。氏名、生年月日、現住所、電話番号は俺が全て知っているから、それを教えてやる。俺の家族は全員、社会健康保険でなく、国民健康保険を利用している。当の本人は死んでいるから、目くじらを立てる奴はいない」
「けどよ、将は運転免許証を持っているだろ? そこで足が着いちまう」
「違えな。あいつは酒気帯び運転、飲酒運転、スピード違反の常習者で、運転免許証を取り消しになっているんだ。実質、持っていないことと同じだ」
なるほど。将は死んでいて、両親も調べようとしない以上、なりすましてバレることはなくなる。小谷も将が生活していることになれば、警察が捜索をすることもなくなるだろう。
小谷という氏名の印鑑を用意することなど容易い。問題は、市役所に転出届を出しに行くことだろう。
「でもよ、どこに引っ越しさせればいいんだ?」
「問題ねえよ。実家のある場所ではない、行政管轄の異なる地域なら、どこでもいいんだ。そうすれば、市役所の奴らが怪しむことは絶対にない」
「そこに移り住めってことか?」
小谷は首を振った。
「その必要もない。転入届を提出する場合は、正確な新住所が必要なことは間違いない。しかし、ちゃんと存在さえすれば、本当にそこに住んでいるのかを、わざわざ問い合わされることはない」
「誰も住んでいないアパートを使えばいいってことか」
「そういうことだ。あとな、市役所なら、かなり人の出入りが激しいところを選んだほうがいい。職員の記憶に残りづらくなるからな」
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