第8話 食事

「荷物をお運びしますね」

 彼女が手を差し伸べるが、砂川は荷物を持つ手を引いた。

「いいよ。これくらい、自分で持つから」

「そう? 砂川くんがいいのなら、いいけれど……」

 荒浜の後ろを歩いて廊下を歩いている間、砂川の視線は、色っぽいうなじに釘点けになった。高校時代も、いつも無造作なポニーテールをしていた。席替えで後ろの席になった時などは、いつもその綺麗なうなじを眺めていたものだった。

 そんな彼女も、旅館を経営するまでになっていると思うと、一抹の寂しさが心の中に去来した。きっと、荒浜のことだから、ハンサムな男と結婚しているのだろう。

 一瞬、久保木の姿が脳裏にちらついた。砂川は首を振った。あのような男が、荒浜と交際出来るわけもない。

「砂川くん? 大丈夫?」

 思考に没頭している間に、予約した部屋の前に着いていた。砂川は赤面しながら答えた。

「うん。なんでもないよ」

「なら、いいんだけど……」

 彼女は部屋の説明をしたあとに、頭を下げると出て行ってしまった。

 荒浜との関係が進展するのではないかと、ひっそりと期待していた自分に気がついた。

 砂川は、自虐的に笑った。

 あの人が自分のことを覚えていたからといって、なんだというのか。昔の同級生の名前くらい、覚えていてもおかしくはない。きっと、彼女は自分に興味の欠片もないだろう。とにかく、過剰な期待を持つことを止めろ。俺は所詮、人殺しに過ぎない。

 ダウンジャケットを壁際に放ると、用を足してから、水面台で手を洗った。

 彼女と結婚した男は、どのような人間なのだろうか、と不意に疑問に思った。自分とは正反対な人間……。学生時代はスクールカーストの頂点に君臨し、就職活動では引っ張りだこになり、会社に勤めてからは、トップの成績を叩き出す人間。

 久保木のような屑が結婚相手だと考えると、胸がムカムカしてきて、胸糞悪い気分になった。彼女の結婚相手は、あらゆる場面で完璧でなければならないのだ。そうでなければ、納得出来るはずもない。

 手を洗ったあとは、窓の外に目をやった。そこにはこぢんまりとした和風庭園があり、その先には仙台漁港の広大な海が広がっていた。爽やかな澄んだ空気を肺に吸い込んでから、彼は窓を閉めて、座布団に頭を置いて横になった。

 天井には木目があり、まるで人の目のように見えた。眺めている間、急に瞼が重くなってきた。

 寝てもいいだろう。誰に迷惑をかけるわけでもない。

 うとうとしながら、廊下を行き来する人々の足音を聞いていた。自分は有休を取って、旅館に訪れているということになっており、荒浜はいつも通り働いている。少しだけ彼女の優位に立てた気がして、気持ちが楽になった。

 昼食の時間がやって来るまで、レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返した。

 夢の中では、砂川は荒浜の夫であり、二人の子供に囲まれる幸せな家庭を築いていた。子供たちは学校から帰ると、旅館の手伝いをして、将来はこの旅館で働くことを夢見ているようだった。

 理想に反して、今の自分は如何に愚かで、醜いのだろうか。会社に勤めてからは、社長や上司、同僚とトラブルを起こして、仕事を辞めてを繰り返している。麻友が愛想を尽かすのも仕方がないのかもしれない。だからといって、久保木の野郎より劣った存在であるとは思いたくなかった。

 午後十二時を過ぎた頃になると、部屋の扉がノックされた。その時、砂川は覚醒と眠りの合間を彷徨っており、応対することが出来なかった。

「砂川くん? いる?」荒浜の声。

 彼女がドアノブを回すと、鍵がかかっていないので、扉は簡単に開いた。砂川は座布団に頭を置いて、だらしない格好で眠りに着いていた。

 その様子を見て、荒浜はクスリと笑うと、砂川の体を揺すった。

「砂川くん、起きて。昼食の時間よ」

「……」

 彼は低く唸るばかりで、目を覚まそうとはしなかった。

 壁際に投げられている、皮製のカバンを目視する。チャックが開いており、中に入っている本の表紙が、僅かばかり見えていた。

 荒浜は興味をそそられて、チャックを開けて、中に入っている本を取り出して見た。

「完全失踪マニュアル……?」

 白っぽい表紙には、人の模様が描かれたパズルのピースがあった。ピースはバラバラになっており、それが失踪を意味しているのだろう。

 どこかに逃げようとしているのかな? と、荒浜は思った。

 本をバッグの中に入れると、チャックを閉めようとした。

 すると、砂川が座布団から頭を起こして、言った。

「あれ? 荒浜さん、なぜ、ここに?」

「あっ」

 荒浜は急いで振り返り、バッグの中身を見ていたことを誤魔化そうとした。

「うんうん、なんでもないの。お昼の時間になっても来てくれないから、起こしてあげようと思って」

「そう……なんだ。寝ていてごめんね」

「うん。すぐに食堂のほうに来てね。待っているから」

 彼女がいなくなったあと、バッグのチャックが開いたままになっていることに気付いた。砂川は首を傾げた。おかしい。部屋にやって来てから、一度もバッグを開けようとなどしていないのに……。

 バッグの中から取りだしたのは、「完全失踪マニュアル」という本だった。旅館に向かう時に立ち寄った古本屋で、偶然に見つけたものだ。久保木を殺したあとのことを考えて、購入したのだった。

 額から、じわり、と嫌な汗が流れてきた。

 彼女に、この本を見られてしまったのだろうか。その可能性は高いだろう。寝ぼけている間、荒浜がバッグの前で、ごそごそと動いていたのを見ていた。

「まずいな……」

 砂川は思わず、声に出して言った。麻友を殺したことを勘付かれて、警察に通報でもされたら、全てが水泡に帰してしまう。

 とりあえず、平静を保って食堂に向かおう。そのほうが自然に見えるはずだ。

 部屋を出ると、渡された鍵でしっかりと施錠した。ここに来て、鍵をかけることを忘れていたことが悔やまれた。死体のある自宅から離れて、すっかり油断していたのだ。

 自宅から離れるということは、警察が自宅に突入しても、咄嗟に反応出来ないことを意味している。むしろ、警戒すべきなのだ。

 通路を歩いていると、突き当たりに館内マップを見つけた。地図を頭の中に入れて、食堂まで歩いた。

 平日の昼間とあって、食堂にはほとんど人がいなかった。小さな子供のいる家族連れが一組いるのみである。あまり経営状況は芳しくないのだろうか。

 「砂川耕司様」と札の置かれた席に座る。テーブルの材質はナラと呼ばれている木材で、虎の模様に似ている木目が特徴的だった。

 食事が載ったお盆を持って、荒浜が食堂に現れた。

「お待たせしました」

 お盆をテーブルに置き、皿を砂川の前に並べていく。大皿にはエビフライやハンバーグ、白身魚のクリーム煮。小皿には、あさりのスープやフルーツパフェなどが用意されていた。

「和風の旅館なのに、昼食は洋風なんだね」

 砂川がそう言うと、荒浜は困ったように微笑んだ。

「そうね。和風のほうが良かったかな?」

 砂川は顔の前で手を振った。

「いや、これで充分だよ。美味しそう。いただきます」

 彼女は笑みを浮かべた。

「召し上がれ」

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