第9話 永久失踪マニュアル

 昼食を食べている途中、荒浜が尋ねてきた。

「砂川くんって、もしかして、どこかに逃げようとしているの?」

「え?」

「ごめんね。偶然、チャックが開いていたから、バッグの中に入っていた本が見えちゃったの」

「……」

「完全失踪マニュアル、なんて、なにに使うのかなと思って」

 砂川はなんでもない風を装い、箸でエビフライを摘まみ上げると口に運んだ。

 なんと答えるべきだろうか。頭の中で言い訳を捏ねくり回したあと、ようやくそれっぽいものを思いついた。

「……小説だよ」

「小説?」

「小説を書いているんだ。それに使おうと思って……」

 こんな言い訳で誤魔化せるものだろうか。

「そうなんだ。てっきり、砂川くんが悪いことをしたんじゃないかって思って、心配したわ。どんな小説を書いているの?」

「えっと……、濡れ衣を着せられた主人公が、政府の追っ手から逃げる話だよ」

 嘘がぺらぺらと口の中から飛び出してくる。

「帚木蓬生の「逃亡」みたいな?」

 その作家の名前を知らなかったが、砂川は相槌を打っておくことにした。

「そうそう。そんな感じだよ」

 元図書委員であるので、本には詳しいようだ。

「大人になった今も、本は沢山読んでいるんだ?」

 彼女は頷いた。

「うん。月に十冊くらいだけどね」

「十冊も読めば充分だよ。僕なんて、月に一冊読むか、読まないかだからね」

「そうなの? よく図書室に来て、本を借りてきていたのに」

 それは、図書委員である君が目的だったとは、言えるわけもない。

「結婚してからはどう? 結婚生活は良好?」

「……」

 子供が出来ずに、妻は愛想を尽かして不倫。現在、不倫協議中だとは言えるはずもない。

「そうだね。良好だよ」

「子供は何人いるの?」

「いないよ。そういう主義だから」

「そうなの? 子供がいない老後は寂しいと思うわ」

 子供。麻友がもっとも欲しがっていたもの。

「……俺は別に、子供なんていらないと思うけど」

「砂川くんって、反出生主義者だったのね。全然、知らなかったわ」

「え? 反出生主義って?」

 テレビや小説などで見聞きすることはあったが、詳しくは知らなかった。

「子供を作ることに反対する思想のことを言うのよ。ショーペンハウアーやベネターが支持者として知られているの」

「へえ。詳しいんだね」

「別に詳しいわけじゃないわ。偶然、知っていただけ」

「ふうん」

 話している間、箸が止まっていた。いつまでも根掘り葉掘り聞かれるのは苦痛なので、早めに食べてしまうことにする。

「あっ、そんなに急いで食べなくても……」

「早く食べて、部屋で小説でも書こうと思ってね。ゆっくり食べていたら、旅館の人にも悪いと思うし」

「急いで食べなくていいわ。うちの旅館、そんなに客が多いわけではないから」

「そうなの?」

「うん。わたしは二年ほど前まで、普通の会社で事務として働いていたんだけど、養母が脳出血で亡くなってから、人手が足りなくなってしまったの。だから、わたしも仕事を辞めて、女将としてここで働くことになったんだけど……」

 現状を語る彼女の顔は暗かった。

「養父の勧めで、古かったこの旅館を、一六〇〇万円かけて新築したのよ。でも、それからなぜかお客さんが来なくなっちゃって……。ローンが苦しいの」

「そう……なんだ」

 世の中、上手いこと転がらないものだな、と思う。てっきり彼女は、順風満帆な人生を謳歌しているとばかり思っていた。

 砂川には、どうしても気になることがあった。

「荒浜さんって、結婚していないの?」

「えっ」彼女は驚いた表情になる。「結婚はまだしていないわ。付き合っている人もいないし」

「そうなんだ。じゃあ、そろそろ……」

 お盆の上に皿を載せて、座布団から立ち上がる。

「うん。夕食時になったら、また呼びに行くから。小説書くの、頑張ってね」

「分かった」

 食堂から出ると、廊下を歩いて自室へと向かった。中庭には、小さな水車があり、循環した水によってくるくると回っていた。

 自室に戻ると、しっかりと扉を施錠した。前と同じ過ちを繰り返してはならない。

 バッグの中から、古本屋で購入した本を取り出して、数ページを捲った。目次は「失踪期間一ヶ月編」と「失踪期間数ヶ月編」、「失踪期間数年編」、「永久失踪編」に分かれている。今の自分に必要なのは、永久に失踪することだろう。誰に姿を知られることなく、ひっそりと生きていくしかないのだ。

 「永久失踪編」のページを開く。一九九四年に出版された古い本であるので、ページは赤茶けていて、カビのような変な臭いがした。

 永久に失踪するために必要なものは、整形手術、記憶喪失を装う、出家、戸籍購入、失踪宣告とある。失踪宣告に必要な日数は、音信不通後、七年間である。七年間逃げ切れば、国が定めた失踪宣告という制度によって、法的に死亡が認定されることになる。

 長期間逃げ続けることを考えると、整形手術をすることは必須のように思われた。殺人事件が起これば、顔写真や事故の様子はニュースとして大きく扱われることになり、ずっと部屋に引き籠もっているのでなければ、誰かに顔を見られる機会は無数にあることになる。そうなった場合、整形手術は大きな効果を発揮するだろう。美容整形は健康保険が適用されないため、どんな偽名を使って受診をしても発覚することはない。

 しかし、と思う。妻を殺害したことがバレれば、美容整形外科に、警察によるローラー式の調査が行われ、手術時期や年齢から、整形のカルテはすぐに見つかってしまうだろう。


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