第43話 大爆発

 ふたたび、ひたひたと警察の手が伸びていることを、砂川はまだ気付いていなかった。

 今日は佳織姉ちゃんと会う約束になっていた。

 電話で受け答えする彼女の声が、緊張で震えていたことを思い出す。確かに、俺はもう昔の自分とは違う。単なる殺人犯だ。しかし、彼女は会ってくれると言っていた。それだけが唯一の救いだった。

 エレベータが四階に上がってきて、驚くほどゆっくりとドアが開いた。中にはいって、降下していくのを皮膚に感じる。重力が下にへと働いていく感覚。

 ロビーに入ると、正勝がなにやら深刻そうな顔で電話をしているのが分かった。こちらにちらりと視線をやった。その目には、まるで、奇妙な動物を見るような感情が点っていた。

 まさか、と思う。警察に居場所がバレたのだろうか? そんな馬鹿な。佳織姉ちゃんが裏切ったとでもいうのか。

 砂川は首を振った。そんなはずはない。俺は彼女を信じている。

 カウンターにキーを置いて、なんら警戒もせずにホテルから出た。繁華街ということもあり、人や車の群れが行き交っている。歩道を歩く人々はみな、学生やサラリーマンばかりだ。今の自分はマスクと眼鏡をかけて、肌色のコートを身に纏っている。ジーンズに、背中にはバックパック。中には持ち合わせている金と財布、ションピングセンターで買った文庫本など。そして、拳銃。

 次の角を曲がって真っ直ぐに進むとバス停がある。そこから乗り合わせて、あらはまへと向かう。

 バス亭の隣には、ビルがあり、一階にはコンビニがあった。まだ朝食を取っていなかったので、買っておこうと思う。バスの中で食べよう。

 コンビニの中に入ると、やけに男性客が多いように思えた。なにか違和感を覚えたが、真実には至らなかった。

 緑色の買い物籠を手にとって、商品を中に入れていく。サンドイッチ、おにぎり、缶コーヒー、お菓子。

 カウンターの列に並ぶ。朝ということもあり、やはり学生やサラリーマン、土方などが多い。やがて自分の番がやって来た。金を払い、店員はレジ袋の中に商品を入れる。おにぎりを温めるかどうか聞かれる。温めてくれるように頼む。店員は無言で、レンジの中におにぎりを入れる。終わるまで、次の客のレジ打ちをする。一分ほど経ってから、レンジのアラームが鳴った。店員はおにぎりを取り出して、レジ袋の中に入れて、砂川に差し出した。それを受け取って、コンビニから出る。

 バス停には長い列が出来ていた。一番後ろに並ぶ。いつまで経ってもバスが来ないので、腹の虫が鳴った。レジ袋からおにぎりを取り出して、包装を外すと口に運んだ。具は大好きなツナマヨネーズだった。コンビニのおにぎりはこれしか食べない。

 前に並んでいる、神経質そうな顔をした女がこちらを見て、不快そうに顔を顰めた。高そうなコートを着ていて、食べ物が飛んで汚されたくないらしい。そもそも、道路の上でものを食べるという行為そのものが、許せない様子だ。砂川はジロリと睨み返したあと、鼻を鳴らして、またいつも通りに食べ始めた。お前に関係ないだろう。

 三分ほど経ってから、後ろに六十過ぎの老婆が並んだ。老婆は、このバスが目的の場所に向かうかを尋ねた。砂川と行く場所が偶然にも同じであったので、向かう、と答えておいた。

 さらに時間が経ってから、のろのろとバスがバス停にやって来た。いつもより時間がかかったな、と思う。人に見られる場所に向かうのは、危険が伴う。しかし、佳織姉ちゃんの顔が見たかった。きっと、自首するように勧められることだろう。彼女に言われて自首するのなら、それでもいいだろう。それが運命というものだし、もう逃げるのには疲れていた。

 ニュースなどで整形後の顔写真が公開され、美容整形が出来ない以上、行き着く先は目に見えている。ホームレスだ。そこでも、殺人犯として迫害を受けることだろう。こんな寒空の下、野宿が出来るはずもない。凍え死んでしまう。

 列に従って、バスの中に入っていく。砂川が来た時には、全て席は埋まっていた。仕方がなく、廊下に立って、吊革を握る。

 バスは動き出す。死地に向かっているとも知らずに。

 車内で揺られている時は、ずっと窓の外を眺めていた。街並みを次々に駆け抜けていき、歩行者やのろい車を追い抜いていく。街行く人々、一人一人に人生があり、それぞれの道を歩んでいる。そう考えると、なぜか、目尻に涙が浮かんだ。

 俺はその誰でもない。何人もの人や警官を殺した殺人鬼――警察から逃げ続ける逃亡犯なのだ。昔はただの一般人であることや、平凡であることにコンプレックスのようなものを抱いていた。だが、今なら分かる。平凡とは幸運なことだ。平凡な日常こそ、もっとも尊ぶべきものだと。

 俺は日常を失った。このまま一生逃げ続けるか、ホームレスになって、凍え、飢え死にするか。それとも警察に捕まって、豚箱にぶち込まれ、死刑台に送られるか。

 佳織姉ちゃんは、どう言ってくれるのだろうか。やはり、自首するように言うのか。それとも、逃げる道を提示してくれるのか。どちらだろう。

 窓の外を見ているうちに、パトカーの数がやけに多いことに気付いた。

 頭の奥で、なにかが警戒音を鳴らしている。ここはまずい。早く逃げろ、と。

 バスの中に視線を巡らしてみると、明らかにカタギではない――視線が狼のように鋭い男たちが、こちらを睨みつけているのが分かった。

 砂川ははっとした。

 私服警官だ。

 もしや、嵌められた? 佳織姉ちゃんに嵌められたっていうのか? そんな馬鹿な――。

 バックパックの中から密かに拳銃を取り出して、ジーンズの右ポケットに突っ込んだ。もしものためだ。彼女が裏切るなど、万に一つもあるとは思えないが。

 バスは目的のバス停に到着した。すぐ傍に、荒浜が運営している旅館、あらはまがある。

 列で並んでいた時に、話しかけてきた老婆が楽しそうに言った。

「わたし、あそこの旅館に泊まるのよ。さっきはありがとうね。あなたはどこに?」

 言葉が喉に詰まる。「俺は――」

 乗り合わせていた人々が、次々にバスから降りていく。最初に下りるのは、廊下に立って、吊革を握っていた人たちだ。砂川も後に続きながら、窓の外にある人が見えた。

 恋い焦がれていた女性――佳織姉ちゃんだった。

 やっぱり、彼女は待っていてくれたんだ。そう思うと、ほっとして、涙が出て来た。

 バスを飛び出して、佳織のもとへ駆け寄る。彼女は薄いピンク色のコートを羽織っており、髪はつやつやしていて、いい匂いがした。白い肌はツヤがあって、とても美人に見える。

 彼女は砂川を見て、悲しそうに微笑んだ。

「佳織姉ちゃ――」

「うおおおおおっ」

 叫び声。

 バスの中から、人を掻き分けて降りてきた男たちが、こちらに飛びかかってきていた。

 砂川は確信した。嵌められた――。

 右ポケットの拳銃に手を伸ばしていた。それを向かい来る男たちに向けて、何発か撃鉄を起こした。

 スローモーションのように血飛沫が舞って、男たちが倒れていった。

 佳織ははっと目を見開いて、驚愕に顔を歪ませる。

 バスから降りてきた人々も、同様だった。

 旅館の背後に隠れていたパトカーから、警官が沢山現れて、こちらに接近してくる。手には拳銃があった。

 けたたましいサイレンの音が、こちらに向かってどんどん近づいてくる。

 こうなったら――。

 佳織の背後に回り込むと、腕で首を絞めた。彼女は恐怖のあまり、小さな悲鳴を上げた。銃口をこめかみに宛がう。

「撃つな! この女がどうなってもいいのか!」



 人々の間に響めきが走った。

 佳織の首を腕で絞めつつ、すばやくバスの中にはいりこみ、拳銃の銃口を、運転手の頭に宛がった。砂川は落ち着こう、冷静になるんだと自らに言い聞かせた。ここで終わるわけにはいかない。まだ、手は残っている。こんなところで終わってたまるか。

「俺が今から言う場所に、バスを運転しろ」

 運転手は恐怖のあまり、なにも言わずに頷いた。

「ドアを閉めろ。今すぐにだ」

 バスのドアが閉まった。私服警官たちが押し寄せて、拳でドアを叩いている。運転手が不審な動作をしようとしたので、天井に向けて威嚇射撃した。声を凄ませて言う。

「絶対にドアを開けるな。今すぐ発進しろ」

「ど、どこに行けばいいんですか?」

 震えそうになる声を、必死で抑え付ける。運転手や佳織に、恐怖心を悟られてはいけない。気丈に振る舞うんだ。常に強気で。

「とりあえず、走り続けてパトカーを撒くんだ。勝手な行動は絶対に許さない」

「なぜ、わたしがそんなことを……」

「撃ち殺されたいようだな?」

 運転手は恐縮した様子でハンドルを握った。バスが走り始める時、パトカーの拡声器が声を上げた。

「砂川耕司!」

 声の大きさに佳織は驚いて、足をばたつかせた。いつまでも腕の中に抱えておく必要はない。佳織を後部座席方向に蹴り飛ばした。女はヒステリックな被害妄想に囚われて、外に向かって助けを叫び始めた。

「バスジャックしたところで無駄だ」恐怖感を煽るような声。「お前は完全に包囲されている。人質を解放しろ」

 パトカーがバスを取り囲もうと動き始めた。

「もう諦めなさい」と、運転手が困り顔で言った。「こんなことが成功するわけがない。わたしは運転しない」

「なら、お前はもう無用だ」

 銃口を運転手の顔面に向けた。男は諦めたように項垂れた。血飛沫が舞い、運転座席を赤く染めた。外にいる者たちが「撃った」と騒いでいる。

「自首するんだ!」拡声器の叫び。

 誰が自首などするものか。絶対に諦めないぞ。

 運転手の死体を廊下に転がすと、運転座席に乗り込んでハンドルを握った。新卒切符を切って入社した会社を辞めたあと、砂川は実家に戻ったが、仕事にあぶれていた。その時に教習所に通い、大型二種免許を取得していた。一時期は大型トラックの運転をしていたこともある。大きくUターンしようとするが、パトカーが前に進み出てくる。

 邪魔だ。思い切りアクセルを踏んで、パトカーの横っ腹に激突した。パワーウィンドウが粉々に砕けて、ドア部分が大きくへしゃげた。横転して、やがて動かなくなった。中から警官が二人、ドアを開けて出てきた。彼らをタイヤで踏み潰すと、車体が大きく揺れ動き、佳織はまた悲鳴を上げた。

 あらはまの駐車場を突破すると一般道路に出た。元来た道を引き返すように、バスは走り出し始めた。

 バスの後方にはパトカーが続いている。どうにかして、奴らを撒かなければならない。

 道は二車線に分かれており、前方から黄色い大型トラックが迫ってくるのが分かった。このままでは衝突してしまう。ハンドルを回して、右の通行車線に移る。

 ここで、十字路に行き詰まった。進んできた道を除いて、三方向に道が続いている。左方向には、東北復興を掲げる看板が設置されている。右方向は工業地帯が広がっている。左方向と直線の道を進めば市街地に辿り着くが、そこにもパトカーが合流する可能性が高い。そう考えると、工業地帯に逃げたほうが吉か。

「ねえ、一体、どこに行くつもりなの?」佳織はキーキー声で騒いだ。切羽詰まっている中、彼女の声は癇に障った。「早くわたしを逃がしてよ! わたしは関係ないでしょ!」

「黙れ!」砂川はイライラして怒鳴り声を上げた。「お前が裏切った所為だろうが?」

「うるさいっ、人殺し!」佳織は喚くことを止めない。「なにが佳織姉ちゃーんよ。気持ち悪いったらありゃしない!」

 ポケットに突っ込んでいる拳銃に、手を伸ばしかけた。この女、本当に殺してやろうか。少し考えてから、砂川は首を振った。まだだ。まだ、この女には利用価値がある。人質として使えるのだから。

 一番警戒すべきことは、佳織が飛びかかってくることだった。彼女は後部座席に偉そうに腰かけて、足を組んでいるだけだ。拳銃で撃たれるのが怖いのだろう。

 工業地帯へ続く道路は、よく整備されていて、全くといって言いほど凹凸がなかった。この滑らかな道路をロードバイクで駆け抜けることが出来たら、どれほど気持ちがいいだろうか、と思う。そんな妄想は、けたたましいサイレンの音で掻き消されてしまう。まずは、ここを突破しなければ。絶体絶命の状況だ。

 門扉傍には、「仙台石油エネルギー株式会社」と書かれている。黒色の門扉は開いており、中に入ることが出来そうだった。久しぶりの運転だったので、バスの右側が掠り、車内に振動が走った。

「この下手くそっ!」佳織の声。

「黙れっ!」砂川は怒鳴り声を上げる。

 バスをUターンさせて、入り口を塞ぐようにバスを止めた。これなら、パトカーは入ってこれない。

「ついてこい!」操作して、バスのドアを開けた。運転手の死体に引っ掛かって転びそうになったが、なんとか立て直した。佳織の腕を掴み、強く引く。「離してよ!」彼女は抵抗を見せるが、拳銃をちらつかせると大人しくなった。

 数々の工場設備の他には、円筒型の石油タンクが数多く並んでいた。これらに火をつけたら、一体どうなってしまうのだろうか。

 バスの前にはパトカーが数多くおり、回転灯の光が激しく点滅している。妨害には成功しているようだ。警官たちは門扉をよじ登り、こちらに向かってきている。

 どうにかしなければ――。

 周囲に視線を巡らせる。百メートル先に、高圧ガス貯蔵庫と書かれた施設があった。施設の扉は無造作に開いており、可燃性ガス、毒性ガス、酸素などを貯蔵した、背の高い容器がいくつも放置されている。

 これだ!

 「可燃性ガス」と掠れた白い文字で書かれた容器。それを石油タンクの元まで運んだ。

「なにをするつもりなの?」ヒステリックに、佳織。ようやく、やろうとしていることに気付いたようだった。「そんな恐ろしいこと――。やめて! 絶対にやめて! そんなことをしたら――」

 これしか、生き残る方法はない。

 佳織が手を振り払って、悲鳴を上げながら逃げ去っていく。容器の先端には、安全弁と圧力調整器装着部があった。砂川は緑色のハンドルをゆっくりと一回半、左へ回した。シューッという音がして、出口からガスが噴き出してきた。

 バックパックからライターを取り出して、火をつけた状態でガスの出口に放った。

「砂川っ、なにをしている!」警官たちがこちらに近づいてきて叫んだ。「馬鹿な真似はやめろっ!」

 ガスが瞬間的に発熱し、驚くほど巨大な炎が石油タンクを包んだ。

 逃げろ――。

 敷地を横切って塀を勢いよく跳び越えると、その拍子に地面に顔から落下した。激痛が走る。その瞬間だった。

 大爆発。

 放出された可燃ガスに原油が引火、そして爆発を引き起こした。地獄の魔の手のような激しい炎と煙が、逃げ損ねた沢山の警官たちを飲み込んだ。悲鳴と絶叫が木霊して、断続的な爆発音にそれは掻き消されてしまった。

 堀の向こうには、佳織が地面に座り込んで震えていた。ひどく青ざめている。

「なんてことなの」彼女は腰が抜けて、立ち上がることが出来ないようだった。「こんなに恐ろしいこと、許されるわけがないわ。あなた、きちがいよ」

「……」

 砂川は無言のうちに、佳織に近づいた。

「来ないで!」彼女は後ずさる。

「なあ、一つ聞いておきたいことがある」砂川は諭すように言った。「なぜ、俺を裏切った? 俺はお前を信じていたのに」

 佳織は泣いていた。混乱状態にあり、なにも言えないようだった。

「な、なんで、そんなこと――」

「……」

 バックパックを背負い直すと、砂川は整備された舗装道路を走り始めた。向かう先は決まっていた。辿り着けるかは分からないが。

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