第27話 仮免許試験
朝。目覚まし時計がけたたましいアラームを奏でた。即座にアラームスイッチをオフにして、瞼を開ける。同時に、小谷も目覚める。今日は仮免許試験の日だった。会社に通っている時は、毎日自動車を運転していたので、試験に落ちるわけがないと思っていた。
「朝飯はどうする?」と、砂川が尋ねた。
「んー、そうだな……」彼は寝ぼけ眼で布団から起き上がると、ゴミ山を掻き分けて、冷蔵庫の扉を開けた。「なんにも入ってねえ。サンドイッチとコーヒーでも、近くのコンビニで買って来てくれねえか?」
「でもよ、前に言ってた、玉城とかいう小うるさいババアがいるんだろ?」
「大丈夫だって。気をつければ出会うことなんてねえから。そもそも、今日の担当は酒井っていうじいさんじゃねえかな?」
「……」
少し考えたあと、砂川は渋々了承した。
「仕方がない。買ってくるから、あとで自分の分の金は払えよ」
「わーってるって」
水道台の前に立ち、洗面をして、綺麗に髭を剃り落とす。シェービング剤を水で洗い流す。自宅から持参したタオルで顔を拭いた。そのあと、ドライヤーと櫛で寝癖を直していく。パジャマと兼用しているジャージを脱いで、いつもの私服に着替えた。
「そんじゃ、買ってくるわ」
「おう、頼んだ」
ゆっくりと扉を開けて、辺りを窺う。玉城というばあさんを見たことはないものの、絶対に出会いたくはなかった。小谷の家から離れたら、一体、どこに住めばいいかのかが分からなくなる。
廊下に出ると、ザッ、ザッという聞き慣れた音が聞こえた。この音は、自宅にいる時によく聞いていた。隣家の老婆が、よく家の前を箒で掃除していたのだ。
階段は二つある。手摺りから顔を出して、下の様子を窺った。
一階で掃除をしている老婆がいた。白髪はところどころ抜け落ちて、地肌が晒されている。しわくちゃでたるみの多い肌は地黒で、老人斑が浮き出ている。割烹着を身に纏っており、掃除をする動作は妙に荒々しい。
こいつが、玉城か。
扉の前で、老婆がいなくなるまで時間を潰した。三分ほど待っていると、彼女が階段を上がってくる音が聞こえた。左方向だ。
砂川は急いで右方向の階段から道路に駆け下りた。そのまま角を曲がり、近くのコンビニに向かう。
後方を振り返るが、玉城が追ってくる様子はなかった。ほっと胸を撫で下ろす。
二人分のサンドイッチと缶コーヒーを購入して、レジ袋を下げて、コーポの近くまで戻った。
曲がり角から顔を出して、玉城がいないかどうかを窺う。あの老婆の姿はどこにもなかった。駐車場に隠れている様子もない。これなら問題はないだろう。
階段を上がり、二〇三号室に入った。玄関で靴を脱ぎ、ゴミだらけの部屋の中に入っていく。
「どうだった?」と小谷が尋ねた。もう部屋着ではなく、工場の作業服に着替えているようだ。
「いたよ。玉城ってばあさん。危うく見つかるところだったぜ」
テーブルの上には、大量に酒瓶やビール缶、空のペットボトルが置かれている。それらいくつかを畳に下ろしてから、買ってきたものをそこに並べた。
レシートを小谷に渡す。
「税込みで四〇六円だ」
「あいよ」財布から金を取り出して、五百円玉を寄越してきた。「釣りはいらねえよ」
座布団の上に座り、サンドイッチを食べ始める。「ジューシーハムサンド」という名称のわりには、薄っぺらい二枚のパンに、少量のハムとチーズが挟まれているのみだった。これだけでも、どうしようもない空腹は緩和される。
「今日は、仮免許試験だっけか?」小谷が尋ねた。咀嚼しながら言っているので、クチャクチャという音が混じっている。
「ああ、そうだ」
「全く勉強してねえようだが、大丈夫か?」
「問題ねえよ。仮免許試験には適性検査、仮免学科試験、技能試験があるわけだが、苦戦するのは教習所に通うようなぺーぺーだろ。俺が何年間、車を運転してると思ってる?」
小谷は苦笑した。「そんなこと言って、試験に落ちるんじゃねえぞ」
砂川はサンドイッチの包装を丸めると、ゴミ箱に放り込んだ。空の缶コーヒーは洗面台ですすぎ、逆さまにしてカウンターに置いておいた。
「そろそろ行くわ」
「おう」小谷は思い出したように言った。「ああ、それと、これ、お前に預けとくわ」
「なんだ?」
彼が寄越したのは鍵だった。
「この部屋の鍵だ。俺が帰るのは六時過ぎだから、お前のほうが早いだろう」
「そうだな。鍵がなけりゃ、部屋には入れねえもんな」
「いずれ、合い鍵を作る必要もあるかもな」
「ああ」
鍵をジーンズのポケットに仕舞うと、財布などを入れたバックパックを背負い、玄関から外に出た。
仮免許試験が行われる試験場に向かう前に、やらなければいけないことがある。試験を受けるためには、砂川耕司としてではなく、小谷将になりすます必要があった。
小谷のアドバイス通り、都市部にある人の出入りが激しい市役所に、JRとバスを乗り継いで向かった。職員の記憶に残りづらくなるからだ。
事前に役所に電話をして確認したところ、プラスチックの三文判でも構わないようだった。なので、近くの文房具屋で「小谷」と書かれた印鑑を購入した。
市役所の中に入ると、沢山の人で賑わっていた。絶え間なく人の話し声が聞こえる。
職員の一人が、砂川に声をかけてきた。突然のことだったので、心臓が跳ね上がるほど驚いた。
「なにか御用ですか?」
「ええと……」少しどぎまぎしてから。「転入届を提出したいのですが」
「ああ、そういうことでしたか。それなら、番号札を取って、呼ばれるまでお待ちください」
「分かりました」
窓口で番号札を取ると、近くの待合椅子に座った。主に老人が多く、みな、自分の番号が呼ばれるのを待っているようだった。
番号が呼ばれたのは、一時間以上も経ってからだった。出入りの激しい市役所を選んだだけあって、かなりの時間がかかった。その間は、駅の購買で買った文庫本を読んでいた。
呼ばれた窓口の椅子に座ると、手続きを始めた。応対したのは眼鏡をかけた、細身で神経質そうな女だった。
女が転入届の用紙を差し出してきたので、小谷将の住所を書き込んで、持ってきた印鑑を押した。小谷将の氏名、生年月日、現住所、電話番号は、完全に暗記してあった。少しでも不審な行動を取って、怪しまれたくないからだ。
テーブルクロスの下には、転入届の書き方の見本が置いてあったので、それに従って記入していけば間違うことはなかった。「国保資格の有無」に〇をつけて、女に差し出した。
それからまた時間をおいて、窓口に呼ばれた。今度はあまり時間がかからなかった。
女から転出証明書を受け取ると、砂川は心の中で快哉を叫んだ。
「国民保健証を返却してもらえますか?」
「え?」
そう言われた時、一瞬、頭が真っ白になった。大丈夫だ、落ち着け。転出証明書は受け取った。今だけ誤魔化せればいい。
「えっーと……」
砂川はバックパックの中を探す振りをした。その様子を見かねて、女が言った。
「持ってきてませんか? 今ないのであれば、後日郵送でも構いませんが」
砂川は顔を上げた。
「はい。では、後日郵送でお願いします」
「分かりました」
手続きを終えると、速やかに市役所を出た。室内では警備員と思われる男たちが出歩いているので、常に緊張させられた。
次は、転出先住所の市区役所に向かった。転出届に記入した新住所は、誰も住んでいないアパートの住所を記入したものだった。砂川が行っている行為を法律に照らし合わせれば、公正証書原本不実記載や私文書偽造、偽造私文書行使に当たるが、相手がテロリストなどの危険人物でない限り、身分詐称で警察が動くことはない。警察もそこまで暇ではないのだろう。
新住所の市区役所は、図書館の一室を使用したものだった。先程の市役所と比べて規模が小さく、自分しか人がいなかった。
今度は転入届に記入して、印鑑を押した。転出証明書と一緒に「転入転出窓口」に差し出した。手続きに時間がかかるというので、待合椅子に座り、文庫本を読みながら、「小谷将」という名前が呼ばれるのを待った。
十五分ほど経過してから、窓口で自分の名前が呼ばれた。これで、手続きは完了だった。金を払い、住民票を三通ほど入手した。封筒の中に入れて、丁重にバックパックの中に仕舞う。
あと、欲しいのは国民保険証と印鑑登録証明証だが、顔写真つきの身分証明書が必要だった。顔写真つきの身分証明書とはつまり、運転免許証のことである。
試験場の中は、高校生や大学生で騒々しかった。試験までまだ時間があったので、待合室に入った。待合椅子に腰かけているのは、柄の悪い男女だった。煙草の煙を肺一杯に吸い込んで、こちらに向けて吐き出してきた。この餓鬼共は受動喫煙という言葉を知らないらしい。
砂川はそいつらをちらりと見てから鼻で笑うと、カップ式自動販売機でカフェオレを購入した。煙草の煙だらけの待合室で飲む気はなかった。試験場の外に出て、飲み物を口にする。美味い。やんわりとした甘さが、口の中に広がった。
試験の時間が近づいてくると、申請書と苦労して用意した住民票を窓口に出して、受験票を受け取った。
職員と思われる、髪の薄い眼鏡の男がやって来て、学科試験が行われる教室に案内された。全く勉強していないが、ドライバーとしては基本的な問題ばかりだったので、恐らく満点だと思われた。適性検査ももちろん、問題がなかった。
技能試験が行われた。他の受験者たちの運転の下手さに驚いた。なぜ、あんな場所でエンストするのかがよく分からない。曲がりくねった道で躓き、溝にタイヤを落としてしまう者もいた。砂川はなんなく試験をクリアした。
全ての試験が終わると、受験者たちはそれぞれ、帰路についた。これは仮免許試験に過ぎない。採点が甘いのは当然である。問題は、本免許試験なのだ。必ず、一発合格を狙わなければならない。
試験が簡単そうな原付のほうが確実なのでは、と少し後悔したが、バイクには乗れないので、やはり、普通自動車免許証が必要だった。
試験の帰り。街を歩いていると、小綺麗なブティックの前で、誰かに声をかけられた。聞いたことがあるような女の声だった。
振り返ると、病的に色白で、鼻の潰れた女が立っていた。目は異様に細く、眼鏡をかけている。
「誰だよ、あんた」砂川はぶっきらぼうに言った。
女は意地悪くニヤリと笑った。歯並びの悪い、黄色い歯は不潔感しか抱かない。
「誰だっつってんだよ」
「あたしだよ。阿部茜だよ。あんたが高校時代、いじめ抜いた同級生さ」
砂川はしばらく呆然としていた。なぜ、この女がここにいて、俺が砂川耕司だと気付いたのだろうか。
「へええ。砂川くん、あんた、整形したんだ。道理で、最初はあんただと分からなかったよ」
「……」
「あたし、同じ試験場にいたんだよ。丁度、あんたの後ろの席だった。高校の時は、よくあんたの顔を眺めてたから、整形したぐらいじゃ誤魔化せないのさ」
「……」
この女、なにが目的なのだろうか。
「失せろ、糞尼。俺に近づくんじゃねえ」
阿部はせせら笑った。
「なにがおかしい? てめえ、確か、家に引き籠もってたんじゃなかったのか? あ?」
「引き籠もりはもう止めたのさ。あたしの勝手だろ」
「失せろ」
阿部は何度もチラチラと振り返りながら、砂川の前を去って行った。
嫌な汗が額から流れてくる。麻友と久保木の死体が見つかった場合、あの女に、警察に通報される可能性が高い。
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