幼馴染は針を気にする。
止まった時間は、この言葉で動き始めた。
「さっき、蕨野さんがどうして理由を先生に話さないといけないのかって言ってたんです」
どうぞ、おかけください。と、月出先生が保護者に椅子を勧める。
ここでわたしの話を掘り返すのか。隣に座った父親が月出先生の方を見た。
「私は教師になって長く経ちますが、そんなことを言った生徒は初めてです」
こんな口応えをする生徒、という意味なのだろう。
保護者参観にも来たことのない父親はそんなことを聞かされて驚きだと思う。心中お察しします、と他人事のように考えてしまう。わたしにとってこの人は親であって親ではない。
「私も言われてさっきまで考えていたんですが」
「答えは出ましたか」
父親が尋ねる。紅浦先輩のお母様が視線をこちらに向けた。
「これは私の考えですが、こうして大人を挟んで理由や原因を聞いて解決して、同じ理由で生徒たちがぶつからないようにすること。でも、それは大きな建前で、簡単に言うと『もう問題を起こさないようにすること』が一番です。蕨野さんと紅浦さんは、それを約束出来ないから話したくなかったの?」
それは違う。首を振ると、紅浦先輩が顔を上げた。
「そんなことでって、言われたくないからです」
「そんなこと?」
「大人から見れば笑ってやり過ごせば良い問題でも、私から見れば大きなことだし、話してみなさいって言われて『そんなことが理由なの』って言われるのが私は一番嫌だったから」
だから、話したくないです。と続けた。
蕨野さんは? と月出先生がこちらを見る。
「同じ、です」
「言わないって約束しても、話したくない?」
「先生だから、じゃないです。人はどっかで人を見下して生きてる。ちっぽけな理由を笑う人がいるのも知ってます。だから、わたしは先生にも親にも同級生にも理由を話そうとは思いません」
そんなに意外な答えだったのか、月出先生は目を丸くした。
「でも、絶対に紅浦先輩とぶつからないことは誓えます。あと、絶対に問題は起こしません」
「どうしてそれを誓えて、理由は話したくないのかしらね」
「そういうお年頃だからです」
堂々と紅浦先輩が言い放ったので、わたしは吹き出しそうになってしまった。純さんも一瞬肩を震わせる。
「あなたたちの言い分は分かりました。もう話したいことはない?」
ないです、と代表のように会長殿が宣った。
「保護者の皆様は何かご意見ありますか」
それぞれに否を示した。
「では、今日は帰宅して結構です。後日処分を決めさせて頂きます」
廊下に出ると、紅浦先輩のお母様は紅浦先輩の手首を掴んで引っ張るようにして廊下を歩いて行ってしまった。それを一緒に見ていた純さんは肩を竦めてみせる。
父親が純さんのお母様に頭を下げる。
「初めまして、蕨野楓の父親です。こんな形での挨拶になってしまいましたが、娘がご自宅に招いていただいたようで、ありがとうございます」
「錫見純の母です。こちらこそ、純がいつもお世話になっております。楓ちゃんにはいつも助けていただいて」
「暴れ馬ですので、蹴られないように十分注意してもらえればと……」
「やだわ、蕨野さん面白いこと言って」
父親の言葉に蕨野親子が笑っている。暴れ馬って、初めて言われたんですけど。純さんはにっこりと優しくない笑顔でこちらを見る。「まあ、逆井先輩はちゃんと手綱を握ってるみたいだからね」と言った。本当、爆弾を落としてくれる。
「逆井って、お隣の?」
「わたし達は教室に鞄取ってくるから」
父親の質問には答えず、純さんを引っ張った。既に放課後になっていた。下校する生徒とすれ違って顔を二度見される。きっと左頬が酷く腫れている。
「楓」
階段を上っている途中、斜め後ろを歩く純さんが言う。
「楓の理由がどうであれ、ありがとう。楓が殴ってなかったら、あたしが殴ってたよ」
「それはないと思う」
即否定した声に優しさがなかったと思った。それでも、事実だ。
あのとき、頬を押さえていた純さんは震えていた。怒っているのかと思ったけれど、顔を見てすぐに分かった。可哀想なくらい怯えていた。
どれだけ暴力とは無縁の場所にいたのか、と考えた。
内海さんがきっと排除しているのだろう。わたしが雪成にそうしたいように。殴られたことも、誰かを殴りたいと思ったこともないのだと思う。
「純さんはやり返さなかったよ」
だからきっと、そもそもその選択肢がないのだ。
「それって、純さんの美徳だね」
「そ……うかな」
「ん、それにやり返してたら内海さんが悲しみそう」
「確かにそれは否めない」
教室の前に行くと、雪成と中塚が廊下で話していた。こちらに気付いて、珍しいものを見るように目を瞠った。
こんなこと、前もあったような。
「おかえり」
「ただいま帰りました。迷惑かけてごめんなさい」
「謝るくらいならするな馬鹿」
「今日は馬鹿なことしたって思ってるから、言い返せない」
痛そうな顔をして溜息を吐く雪成。
中塚は純さんの顔を覗いて「錫見先輩は大丈夫?」と問うた。うん、と純さんは答える。
「処分どうなんのかって先輩と話してた」
「まだ決まってない」
「紅浦先輩も?」
「ん」
純さんは一番の被害者だから処分はないとして、先に手を出したわたしが退学で紅浦先輩が停学で残れたとしても、会長はどうなるのだろう。このまま紅浦先輩がやるのか、それとも代理のひとが立つのか、雪成に戻るっていうのは流石にないか。
「なんか錫見先輩の家の車が学校の前に停まってるって一時騒然となった」
「うん、うちの親来たから」
「え、親呼び出し食らったの? 恐ろしい現場だ……」
「紅浦先輩の母親が一番元気だったけどね」
くすくすと笑う。何を思い出しているのかは分からないけれど、楽しそうで何よりだ。
バイブ音がして、純さんがポケットから携帯を取り出す。「あ、お母さんだ」という言葉に、中塚が顔を強張らせる。そんな極妻ではないと思うけど。
「親待たせてた。雪成も帰る?」
「今日予備校行く」
「ん、じゃあね」
「気を付けて帰れ、二人とも」
はーい、と返事をする。鞄を持って二人と別れた。
廊下の窓が開いている。明るい青の色が目に飛び込んで、眩しくて瞬く。後ろから黒猫が歩いてきた。
この前まで雨ばかり降っていたのに、もうすぐ夏だ。
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