曼珠沙華は手を握る。

この階は他に比べて驚くほど人が少ない。廊下で人と擦れ違わない程度に。

内海は一人部屋に入っていた。残念ながらあたしが入院した場所とは違っていたけれど、間取りと家具の配置は全く同じ。内海の服が小さめのボストンバッグに入っているのが小さいテーブル上に投げられていた。もしかしたら内海の家もこんな感じなのかもしれない。


「すみません、迎えに行けなくて」


あたしは丸椅子を出して座る。今日はよく謝る日だ。


「楓に最寄り駅まで送ってもらった」

「あの人に一般常識が備わっていたなんて」

「それだとあたしに一般常識がないみたいじゃない?」

「純さんは方向音痴ですけど、帰巣本能はあったんですね」

「内海が結婚できないところってそういうところが原因なんじゃない?」


イラッとしたので口から出た。この話題を最後に内海は喧嘩をしに行ったんだっけ、と言った後に思い出す。ゆっくり内海の方を見るけれど、無表情のままだった。怒ってはいない、と思う。


「直せば結婚できますかね」

「……たぶん」

「善処します」


前向きな答えに口が開いた。内海は結婚したいらしい。

いや、でもこれを聞きにきたわけじゃない。


「なんで喧嘩したの?」


その理由にあたしがいるかもしれない、と自意識過剰なことを考えたのは、楓が『庇ってる』と言ったから。内海が怒られるとき、いつも理由にあたしが関係している。あの時も、あの時も、全く関係無いときでさえ。

だから知りたかった。知る必要があった。


「昔、揉めた相手と出会しまして」

「揉めた?」


ベッドに腰掛けた内海の右足首に青い龍が巻き付いているのが見える。左腕にも同じ龍が巻き付いているのをあたしは知っている。


「小さかった純さんを攫おうとしたバカがいたので」


『うつみ、うつみ』と舌足らずな声。強く引っ張られる腕。記憶の底で植え付けられた恐怖。

今ではもう何ともないけれど、思い出すのは憚られた。

ぱっと目の前で手が振られる。あの無表情がお得意の内海が少し心配げな顔をしてこちらを見ていた。無理にでも笑わないといけない気がした。


「やっぱり、」

「はい?」

「内海が怒られる理由に、いつもあたしがいるなって」


そう思ったの。


「でも、いい歳して喧嘩なんてしないでよ。危ないでしょう」

「もう一発殴っておかないと気が済まなかったんで」

「それって内海が単に喧嘩売っただけじゃないの」

「そうなりますね」

「ありがとう」


ありがとう、なんて可笑しい言葉なのかもしれないけれど、今のあたしにはそれ以外に言葉が出なかった。


「あたしには殴れないから」


右手に触れる。包帯からはみ出た所が赤くなっていた。まだ痛いのかもしれない。

いつもそうだった。

内海は、あたしの痛みを半分持っていってくれた。

その解決方法が穏便でなくても構わない。それはあたしが錫見の人間だから。

いつも名乗るときに少し躊躇う。あたしが錫見の人間だと知ったらどんな表情をするだろうか。曇ったら、言わなきゃ良かったと思う。変わらなかったら、まだ知られてないのかなと思う。あたしは名字も家も内海も切り離せない。

内海は黙ったまま、あたしが触れる自分の右手を見ている。父は内海のことをワケアリだという。それは内海が家に来たことと関係があるのか、聞いたことはない。


「やっぱり、」

「さっきからやっぱりばかりですが」

「いいの、やっぱりまだ結婚しないで」

「はあ」

「まだあたしの送迎してよ。楓の面白い話、また聞いて」


するりと手が抜ける。その手にあたしの手の側面が握られる。骨ばった大きい手だと思った。内海はあたしのことをよく知っているのに、あたしは内海のことを何も知らない気がする。


「俺からもひとつ良いですか」


淡々とした声。


「貴方は暴力からは無縁の場所に居てください」

「うん?」

「殴りたいなら俺が殴ります、首を絞めたいなら俺が絞めます、殺したいなら俺が殺してきます」


物騒だ。楓が聞いたらきっと「ばいおれんす」と平仮名みたいな片仮名言葉を話すんだろうな。


「そんなことしない。あたしは内海にそんなことさせたりしない」


断言する。


「もっと大事にしてよ……」


とんとん、と扉がノックされる。開けられることはなく、「純さん」と土居の声がした。時計を見ると四時を過ぎている。四時には車に戻るという約束だったけれど破ってしまった。「ごめん!」と言いながら立ち上がる。

勢いが良すぎて丸椅子を蹴ってしまって、内海に手を引っ張られてよろめく。背中を内海の胸に預けて、怪我人に寄りかかってしまった。あたしの首元に腕がまわされる。社交ダンスでこんなポーズあった気がする、なんて呑気に思った。包帯の巻かれた腕の下から、あたしの見たことのない刺青が顔を覗かせていた。紅と緑。


「ありがとうございます」


引っ張ったのは明らかに内海なのに、耳元で囁かれる。ぱっと離されて、背中を押される。


「ちょ、ちょっと」

「早く行かないと。土居が泣き出しますよ」

「マジで泣きそうっす!」

「ごめんってば」


扉の外にポイッと出される。本当に泣きそうな顔をした土居がいた。


詳しく聞いた話によると、内海はその日本当にあたしを攫おうとした男を見つけた。まだ生きていたんだという驚きと、知りたくなかった気持ちが混ざる。流石にいきなり殴り掛かるというのは人間性を問われると感じたのか、内海はその男を遠目に観察していた。あろうことかその男は間違いを二度繰り返し、内海にぼこぼこにされた。そして、その男の仲間が来て、やっと喧嘩に発展した。

一応勝ったらしい内海は、ボロ雑巾のようになりながら高架下の草むらに横たわっていた。見つけたのは、母が散歩していたシベリだった。


「いい子だね」


ワン! と吠えてあたしの持っている餌に目が釘付け。ぼんやりしているけれど、可愛くて良い子だ。


「お手」


手を出すと、シベリはきょとんとした顔でそれを見る。それから鼻先を近付けてくんくんと匂いを嗅ぐ。ご飯ではないことが分かったらしく、あたしの持つお皿をじっと見つめた。

昨日は出来たんだけどなあ。頭をわしゃわしゃと撫でてから、お皿を下に置く。「よし」と声を出せば飛びつくように食べ始める。


「純さん、予想通りでした」


シベリの隣に座っていると、内海が来た。


「蕨野聡子さん?」

「はい。あそこに入院していたのは蕨の社長ですね」


病院から出る途中で赤羽さんの姿を見た。楓の家で見た、蕨の社長の秘書さん。自分でもよく覚えていたと褒めたいくらいだけれど、それよりどうして居るのかが気になった。

そういえばこの間、社長の着替えを取りに、と言っていたっけ。

ということは、楓のお祖母さんは入院している?


「ビンゴだったね」


立ち上がろうとしたところで、事前からわかっていたように内海に手を引かれた。

温かい手だった。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る