幼馴染は現実を離れる。
わたしの部屋に物が少ないのは今に始まったことではない。
本棚とクローゼットと机。ベッドはなくて、押し入れに布団や毛布が入っている。本棚にはちょっとだけの教科書と昔買ってもらった絵本や小説と、あとは猫の置物。いつ誰に貰ったのかよく覚えていない。でもずっとある。
朝から気が重かった。
私服に袖を通すのも躊躇われる。赤羽さんが起こしに来てくれなかったら絶対に昼まで眠っていたと思う。因みにわたしの私服も殆ど赤羽さんチョイスなので結構良い値がする。このわたしがてきとーに着てもそれなりに見える服がクローゼットに詰め込まれている。赤羽さんはセンスが良いのだろう。どこでもやっていけるのに、どうしてあの人の下で働いているのだろう。
「おはようございます」
赤羽さんの言葉に、ご飯を咀嚼しながら顔を上げた。おはようございます、と返事をしてスーツを着た父親が現れる。お手伝いさんが用意してくれた朝食の前に座った。
「おはよう」
「おはよ」
「醤油取って」
「ん」
右手で取る。左手は箸を持っている。そのことに何も言われない。この状況に少々の違和感と安堵を感じる。
女ばかりの家に父親が入ることで、お手伝いさんたちはそわそわしている。この人の何が面白いのか分からないけれど、祖母がいたら一喝されそうだとも思う。いたら、なんて今まで考えなかった。
父親の車に赤羽さんと乗って病院へ向かった。そこは総合病院で、休日だからか院内には人が多い気がする。消毒液の匂いとオフホワイトの壁、煩くないようにゆっくり動く引き戸、申し訳程度に置かれた観葉植物。赤羽さんの後について、わたしと父親はエレベーターに乗る。父親の表情を斜め後ろから盗み見ていたけれど、まったく分からなかった。三階でおりると、一階の状況が嘘だったみたいに静かだった。人間の呼吸音すら聞こえる気がする。
「この階は一部の人間以外立ち入り禁止なんです」
「ふうん」
「確か錫見純さんが入院されたのもここですよ」
「誰?」
「クラスメート」
父親が「ふうん」と興味なさそうに返す。赤羽さんが一つの部屋の前で立ち止まる。ノックをして扉を開けた。赤羽さんの次に入ったのは父親で、父親が完全に部屋に入ったところで、足を動かすのを躊躇う。今から、ここでこの引き戸をゆっくり閉めたなら。そうしたら、わたしは現実と向き合わずに済む。
「あら、久しぶり」
その声はいつもより澄んで聞こえた。きっと場所の影響だと思う。わたしは考えていたよりもずっと簡単に顔を上げられた。祖母は痩せたようにも見える。前に見たときすら思い出せない私が思っても信用性は薄いが。
「ご無沙汰してます。どうですか、体の調子は」
父が祖母と話すとき、いつも敬語を遣う。昔はそれに違和感があったけれど、今は普通のこととなっている。父にとって赤羽さんも祖母も変わらず会社の人間であるのかもしれない。
「見ての通りよ」と簡潔な答えとともに身体を起こす。それを見て赤羽さんが支えた。長年のことだからか、慣れているからか、それが驚くほど滑らかな動きに見えた。同じことを思ったかは知らないけれど、父親も同じようにそれを見ていた。
「ここ最近僕にまわってくる仕事の量が尋常じゃない理由はそれでしたか」
「元々代替えの時期でもあるのよ」
「代替え?」
「私は取締役をおります」
場が静かになった。わたしは窓の外に広がる空の青さに目を取られていた。誰がどの呼吸音なのか分かるほど静かだった。
酷くわたしは場違いな気がする。
「社長、その話は今でなくても……」
「赤羽さん、こういう話は意識がきちんとしているときに話したいの」
「次の取締役は誰に?」
赤羽さんの提案を跳ね除ける蕨野の血。赤羽さんがわたしを見て申し訳なさそうな顔をする。肩を竦めてそれに返した。完全に仕事の話をしている二人。今のわたしには全く関係がない。一般的な考えがどうかは分からないけれど、これが余命一ヶ月の人が話す内容なのか。祖母に一般的が当てはまるとは思えないけれど。
「恵都子に任せようと思ってるわ」
恵都子、とは。
ここからは赤羽さんの表情しか見えない。その顔が少し固くなった気がして、父親の反応を見た。数秒の後、近くの丸椅子を引き寄せる。それから初めてわたしの方を向いて、わたしの分の椅子を渡してくれた。
「聡子さんの次は姉さんですか。これまた酷くこき使われそうだな」
「副社長には貴方を推しておいたわ」
「いらないお節介ですよ」
恵都子さんというのは父親の姉らしい。わたしからすると伯母さん。その存在を今初めて知った。
父親が腰掛けた少し後ろに椅子を置く。
「ところで、ホスピスに入るんですか?」
ええ、と祖母は当たり前のように返事をする。
「家に帰るという選択肢は?」
「誰も老耄の世話なんてしたがらないわよ」
「社長、そんな言い方」
珍しく赤羽さんが咎める。
「雅臣を呼び戻した一番の理由はあの家をどうするのか決めて貰いたかったからよ」
「決めるって……」
「長男である貴方に譲ります。住むなり売るなり好きにしなさい」
窓越しにそれを眺めている様だった。
わたしはここに居て、ここに居ない。先程躊躇った一番の理由はこれかもしれない。前に学校にいる雪成が苦手なのと同じように、その輪に入れば一層自分の立っている場所があやふやになる。それは他人なのか、他人の顔をした味方なのか、味方の顔をした敵なのか。
それが本当は、一番怖かった。
「話はそれだけよ。少しで看護師さんがみえるから、早く出ていってちょうだい」
祖母は一方的にそう告げる。父親がこちらを振り向いた。「質問ある?」と授業の説明が終わった後のような軽さで聞いてきた。首を振って答える。足元がぐらついて仕方がない。病室を出るまで、祖母の視線は一切わたしに向かなかった。
一階まで戻って、赤羽さんが受付の方へ行った。担当医師の話を父親が聞く為に今日の時間は設定されたらしく、わたしたちは待合室の後ろの方の椅子に座った。大きな液晶画面のテレビでは、昼のバラエティ番組が放送している。半数がそれを見て、半数が各々待っている。受診を待っているひと、受付を待っているひと、紙に記入しているひと、隣にいる誰かを支えているひと。颯爽と歩いていた祖母とは似合わない場所のような気もして、だからどうしたのかとも思う。
「そういや、お見合いしたんだって?」
テレビを見ていたのだと思っていた父親から質問が投げられた。
「ん」
「自分の誕生日にお見合いって災難なのか幸いなのか……あ、誕生日おめでとう」
「ありがとう」
ふと受付を見ると、赤羽さんの姿がなくなっていた。
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