幼馴染は花蜜を吸う。
一度だけ聞いたことがある。
純さんは髪を耳にかけて眠そうに頬杖をついていた。綺麗で柔らかそうな耳朶、紅が入って艷やかな形の良い唇。睡魔と戦う瞼が完全に落ちていると思って見ていると、急に目が開いた。
「寝てないよ」
誰も指摘してない。
微睡むのが義務だと言わんばかりの気候。春も終わりが見え始めているのに、からりとした良い天気と肉眼では見えないが飛びまくっているらしい花粉。
先程から止まないくしゃみ。
「楓も花粉症?」
「わかんない、この前から酷い」
「はい、ティッシュ」
中塚が鼻をかんでいる箱ティッシュを差し出してくる。何故かロッカーに箱ティッシュを常備している純さんに花粉症の中塚が集ってきた。本人は花粉症じゃないのに何故かと問えば「女子力」と返ってきた。女子力って一体なんの力なんだ。
お言葉に甘えてティッシュを使わせてもらう。今まで何ともなくても急に花粉症になることがあるらしい。経験者中塚は語っている。
純さんが欠伸を噛み締めた。
「春眠暁を覚えず、だ」
落ち着いた中塚が呟く。
「処処啼鳥を聞く、夜来風雨の音、花落つること知る多少」
「……蕨野って中学も今みたいに授業出てなかった?」
「ん。ギリギリ卒業って言われた」
「よくこの高校受かったな。つか、それなのに普通に成績悪くなさそう」
馬鹿にしている感じはなく、中塚は心の底から感心しているようだった。マスクをつけるのを見て、わたしは勉強の日々を思い出す。
「すごい勉強した。ここ落ちたら高校行かないつもりだった」
「え、厳しい家なん?」
「じゃなくて、ここ以外は意味ないから」
ピピピ、と何かが鳴った。中塚の携帯らしく、その画面を指で押して止めた。何か言いたげに立ち上がって、「生徒会行ってくる……」と惜しげに教室を出ていく。
わたしと純さんだけが残されて、窓から入った風にティッシュが揺れる。鼻がむずむずして、またくしゃみが出た。純さんが驚いた顔をする。
「……ごめん」
「もしかして風邪? 季節の変わり目ってかかりやすいらしいし」
「どうだろ」
「あたしはあんまり風邪ひかないからなー」
のんびりした声から眠気を感じる。もれなくわたしもそうなので、中塚も生徒会に行ってしまったことだし、帰宅することに決めた。
教室を出て廊下を歩いていると、純さんが携帯を鞄から出す。ちなみにわたしは携帯を持っていない。昨今の高校生はみんな持っていると聞くけれど、高校生のわたしは持っていない。雪成に買えばと勧められたけれど、全く買う気が起きなかった。会いに来てくれるから嬉しいし、会いに行けるから楽しい。そんな理由みたいな言い訳を並べて、時代錯誤も甚だしいと自分で思う。
靴箱で自分の革靴を出す。下に置いた純さんの首の奥に、紅色がちらちらと覗いた。
「純さんのそれは、好きな人とお揃い?」
想思華と呼ばれる曼珠沙華。今度はゆっくりと姿勢を戻して、わたしの方を見る。そんなに髪を短くしたら、きっとこれからバレる確率も高くなるんじゃないか。
純さんは少し笑った。
「違うよ。想思華なのに、片想いのままになっちゃった」
「別れたから?」
「うん。そのひと、違う女性と婚約してた」
「こんやく……」
校舎を出て校門へ歩き始める。他の生徒たちも遅かったからか、校門の傍にいつも純さんを迎えに来る全身黒の男が立っていた。ネクタイまで黒だから、お葬式か、と勝手にツッコミを入れていたんだけれど見慣れてくると普通に思える。
それに気付いても純さんは歩く速さは変えない。わたしに合わせてゆっくり歩いている。
急に携帯の画面を見せてきた。
「そうだ! これなの。うちに来た大型犬」
「おお……小さい」
「まだ仔犬だからね。楓、今度うち来ない? こんなかわいい子触り放題だよ!?」
「純さんが親ばかなのは分かったけど、わたしにそれを強要しないでください。わたしは断然猫派です」
「来てみれば分かるから。犬の良さが」
真剣な目で言われて気圧された。校門へ着くと先程いた所から更に離れた場所に移った男に「内海、今度友達が遊びに来るから」と声をかける。あの人、内海という名前なのか。内海ってどこかで聞いた、と思ったけど、蕨野よりは聞く名前か。
「じゃあまたね、楓」
「ん、ばいばい」
手を振られる。このとき、わたしはいつも迷っている。手を振り返して良いものか。良いか悪いかと考えるのは可笑しなことだけれど、手を中途半端に挙げて終わる。純さんはそれにいつも苦笑いしている。
送迎付きなのは産まれてからずっとそうらしい。門限は高校生になって緩くなったけれど、結局迎えを待つのだから同じだと言っていた。お嬢様というのも大変な職業だ。
ゆっくりと帰路を辿る。
入学説明会に来たとき、桜が咲いていた。五分咲きの枝の隙間から、青い空が見えた。まだ固く閉じた蕾がいつか花開くことを考えて、途方もない気がして、眠くなった。
今は葉桜だ。
一年前、わたしは中学三年生だった。制服に袖を通す方が少ない毎日だったけれど、遅れて受けさせてもらえた中間試験を終えたわたしを高校生の雪成が待っていた。その日は土曜日で、高校は無かったらしい。
「手応えは?」
「散々。赤点取らなきゃ良いや」
「それで大丈夫なのか……」
呆れたように言った。雪成と外を並んで歩くのは珍しいことで、憂鬱に足を運んでいた道が少し違うように見える。
「進路決めてんの?」
「全然決めてない。どうでも良いし」
「最低高校くらいは出ておかねーと、後々困ると思うぞ」
「ん……あんまり興味ない」
担任にも進路進路と言われた後だったから、雪成にまで言われるとうんざりする。自分の未来に興味がないのは本当で、一年後の自分が何をしていようとどうでも良いという気持ちがある。
そんなのは、迷いもなく進路を決めて、その道を真っ直ぐ進む雪成にとっては不思議なことで意味がわからないことで、わたしがぐずぐずしているのに苛々するのかもしれない。
そんなこと知ったことか。
「楓」
「……なに」
苛々して低い声が出た。これ以上進路の話をされるなら無視してやろう。そう決めて顔を上げた。
「俺と同じ高校来なよ」
くれば良いとか、来ねーのとかじゃなくて。
来なよって言われたのが、頭に残っている。
嬉しかったんだ、わたしは。そうして誘われたことがなかった。
花を持って縁側に現れる幼馴染だった。でもずっと、わたしの中ではそうじゃない気がしていた。それがそのとき、かちりと音を鳴らして、碌に勉強して来なかったわたしの頭の中で言葉が埋まった。
雪成の中にはきっと、わたしの神様がいる。
神様なんて居ないけれど、雪成の中に神様がいるならわたしは神様を信じて見せる。たまには歯向かうし、たまには無視してしまうかもしれないけれど、絶対守ってみせる。初めてだった。守りたいと思えるものが出来たのは。
「……行く」
「本当?」
「ん」
「じゃあすげー勉強しないとな」
はっ、と息を吸い込んだ。そういえば雪成は頭が良かったんだった。わたしは前言撤回したくなりながら、一度目を瞑る。短い間だけだったけど、神様さよなら、とまで思いかける。
「そしたら今度は一緒に登校しよう」
桜の道を二人で歩くのを想像して、わたしはころりと転がされる。天秤の針は振り切った。
その日、甘い甘い夢をみた。
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