幼馴染は空を仰ぐ。
春の空は広い。
保健室で数学の教科書を開いて、椅子の後ろ脚を支えに前脚を浮かせていた。窓の外に見えた空が青くて吸い込まれそうになっていた。
「失礼します」
「はーい」
扉の開く音に返事をする先生。ぐらりと身体が傾いて、慌てて足を床につける。その音が結構大きかったのか、誰かがここに顔を出した。
ジャージ姿の雪成だった。
「今日は保健室か。数Ⅰ?」
「ん。ここ分かんない」
「どれ」
教科書を覗き込む。示した式を見て、雪成が因数分解を教えてくれた。なんとなく理解して次の問題を解くと、答えが合っていた。
流石だ、と感心して見上げる。
「逆井ー」
「あ、やべ。忘れてた」
「忘れんなよ」
その声に笑って近付いていく雪成。体育の途中だったのだろうか。時計を見てから、雪成の後についていった。
「血止まった?」「たぶん」「体操服にもついてる」その会話の中で、雪成の背中から様子を見てみる。ちょうど相手と目があってすごく驚かれたので、すぐに顔を引っ込めた。
「俺頭打ったっけ? いま女の子の霊が」
「お前が打ったのは顔面だ」
「ほんとだって見えたんだって!」
「幼馴染。一年の、蕨野楓」
テーブルの方へ戻ろうとする前に右手首を掴まれた。ぐい、と引っ張られてその前に出される。先生と雪成の友人がきょとんとした顔でこちらを見ていた。その視線に耐えられなくて背中の後ろに隠れる。
開いた窓から風が入って、わたしの数学の教科書がペラペラと捲られた。花の香りが舞う。
「逆井に幼馴染が……」
「蕨野さん、逆井くんと幼馴染だったのね」
「お世話になってます」
ぺこ、と頭を下げるので結局わたしは二人の視線に触れた。諦めて隣に並ぶ。
雪成の友人は鼻にティッシュを突っ込んでいた。
「鼻血」
「駒田悟、鼻血先輩と呼んでも良し」
「逆井、変なこと吹き込むなよ!」
「鼻血先輩、どうして鼻血出てるの?」
あーもうほら! と大きな声で雪成に言う。雪成が笑っている。そういう笑い方を、わたしは初めて見た。
中学には殆ど行かなかった。わたしと雪成が中学で会ったのなんて、片手でたりるくらいだ。大抵、わたしが保健室に居て雪成が怪我をしたり怪我人を連れてきたりするとき。
先生がそれをにこにこと笑って見ている。この部屋には笑うひとが多い。何だか居た堪れなくなって、帰りたくなる。もう雪成が来ない部屋に戻って、ぼーっと縁側に座っていたい。
「レシーブしようと身体ごと突っ込んだら、顔面強打しちゃったんだって」
「ついでにジャージも溶けた」
確かに、膝のところに小さい穴が空いている。「馬鹿ねえ、また変な体勢で取ろうとしたんでしょう」という先生の声に、鼻血先輩が反論をした。雪成がこっちを見るのに気付いて、同じように視線を合わせる。
何も伝わらないだろうな。
数秒間目を合わせて、「ほら、そろそろ戻りなさい」の言葉に雪成が先に逸らした。鼻血先輩と共に保健室を出て行く。先生と二人残されて、わたしは奥のテーブルに戻った。教科書と、計算式と答えの羅列したノートを鞄にしまう。ペンケースを入れ忘れたのに気付いて、無理に押し込んだ。
「先生、帰る」
「今日は授業出ないの?」
「頭痛いから」
それはわたしの常套句で、この先生はそれを知っていて流してくれている。ちょっと怪訝な顔をされたけれど見なかったことにした。
保健室を出て静かな廊下を歩いていく。純さんは今日学校には来ていないらしい。たまに休んでいる。
体育館の方でホイッスルの音がした。ボールをつく音、誰かの話し声、先生のであろう声。
そういえば体育出てないなあ、なんて呑気に思った。一年女子は何をしているのだろう。普段はそんなこと思わない。どうでも良いからだ。わたしには関係ない……のか?
靴箱まで降りて足を止める。
こちらを見ていた。幽霊じゃなくて、生きてる人間だった。ただ驚いたから足を止めただけで、それ以外に理由はない。
ジャージ姿のまま。
「今日弁当ねーの?」
聞かれて、首を振る。壁に寄りかかっていた雪成がこっちに近付いてきた。
外の空気が肺に入る度、花の甘い香りが胸の奥に溜まっているような気がした。重くて重くてこれ以上重くなったら泣きそうだ。泣いたって、世界は変わらないけれど。
生暖かい春が嫌いだ。
嫌いなものばかりに気付く春だ。
「なら一緒に昼飯食べよ」
「……今から帰る」
「あと20分で昼休みだから。帰りに好きなアイスも買おーぜ」
「帰るの」
20分もここにいたらきっと動けなくなる。
雪成は少し悲しそうな顔をして、わたしの名前を呼ぶ。それから左手を掴んできた。思わず振り払った。
「ごめん、」
「……雪成は、学校の友達がいるんだから。そっちとご飯食べれば良い」
「……楓、何怒ってんの?」
振り払ったのに、雪成はわたしの右手を掴んだ。走って逃げる元気がわたしにはないことを少し考えれば分かるのに、そんなことをしなくても逃げはしないのに。
何に怒ってるのか、わたしも分からない。
自分の分からないことを他人に理解してもらうのは不可能に近い。どうしてそれを問われているのかも、わたしにとっては疑問に思う。
それでも理不尽に、わたしにすら分からないその“怒っている要因“を雪成が分からないことに苛立つ。それに戸惑ってわたしの機嫌を取って普通に接してみせたりして。それにとても苛立っている。
花の香りが強い。どろどろと重たくなる心臓が、涙腺をぐずぐすと緩めていく。壊れそうだ。
「雪成みたいにちゃんと学校行って友達がいて勉強ができて生活できる人から見れば、わたしみたいに学校行かないし不健康だし勉強もできない友達も少ない人間は、可哀想? 気を遣わないといけない?」
そんなの思ったのは今年から。
雪成はわたしとは違いすぎた。
「わたしは雪成が居なくても生きていけるし、生きてきたよ。だから、」
羨ましくて妬ましい。
地獄に堕としたいくらい。
言葉が続かなかった。
手を解く。雪成の顔が暗くなったから、もう言えなかった。
「……授業、戻れば」
「そんなこと思ってねーから」
「ん、冗談」
あはは、と笑ってみせた。わたしだってやろうと思えば笑うことくらいできる、と見せたくて。それでも雪成の顔は明るくなることはなかった。
わたしは自分の靴箱に向かってローファーを出した。それを履いていると近くに来た気配がして顔を上げる。視線は重なるのに、わたしたちは分かり合えない。
前髪を梳くように撫でられて前頭部をぽんぽんと叩かれた。「じゃーな」と小さい声が聞こえて、雪成はこちらに背を向ける。それを見たのは初めてだった。
雪成はいつも見送ってくれていた。
そんなひとを傷付けた。
ぼろ、と転がるみたいに左目から涙が落ちた。先に雪成が行ってしまって良かった。
涙で滲む帰路を辿るわたしの頭上には、憎いほど綺麗な空が広がっていた。
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