幼馴染は約束を守る。


初めて祖母に会ったとき、わたしは父親の後ろに隠れていた。

畳の匂いと木製の家。庭の梅の花が散っていくのを見た。花の名前なんて殆ど知らないけれど、桜と梅の違いは物心ついたときから分かっていたように思う。

祖母は着物を着ていた。記憶違いではなければ、淡い紫に金色の帯。それが美しかった。


内海さんは相も変わらず黒い。肌ではなく服の色が。


「お久しぶりです、その節はお世話になりました」


行儀良くお辞儀をしてみせた内海さんが頭を上げる。その節とはあれか、内海さんがどこかで伸びていて純さんを迎えに来なかったときの話か。

生娘とまでは言わないけれど、わたしよりはお嬢様である純さんは駅の方向を知らないし電車の方向も知らなかった。今の一年より長く学校に通っているというのに、全く覚えていないというのは何事かと思う。その必要性に今まで迫られなかったということなんだろう。確かに、わたしだって必要がないからファミレスの注文の仕方とか知らないし、フレンチコースの食べ方も知らない。


「こちらこそ、今日は運んでくださるの光栄です」

「そのときの貸しをこれでチャラにしてもらえればと」

「内海、こんなのでチャラにしてもらおうと思ってるの? 人間が小さいと思う」

「純さんが一人で帰ることが出来れば貸しにはなりませんでしたけどね」

「内海が悪いのに、どうしてあたしにそれを被せてくるのよ?」

「夫婦漫才は良いので、早く車出してもらえますか」


少々乱暴な出発だった。

それでも二人が揃っているのを見ると安心する。純さんの言う野生的なわたしの勘で、純さんは内海さんありきで世の中を上手く渡っていくような気がする。

駅からバスで行こうと思っていた病院は、学校から内海さんの運転ですぐに到着した。平日というのもあって、この間来たときよりも人が少ない。病院の駐車場まで入ってくれるという内海さんに断って、病院前で降ろしてもらった。きっと駐車場に車を停めたら帰りも送られる。

「どうもありがとうございます」とお礼を言うと、純さんの家に初めてお邪魔したときのことを思い出してしまう。あのとき、内海さんの腕に曼珠沙華が咲いていることを知った。純さんはきっとたぶん知らない。知ってても言わないのかもしれないし、気付かないかもしれない。


「また明日ね」


助手席で手を振る純さんに手を振り返して、車が行くのを見送った。

病院に入って、赤羽さんに案内されたエレベーターを使って病室の階まで行こうとした。


「蕨野楓」


フルネームで名前を呼ばれるのは珍しいことだと思う。わたしは立ち止まって、呼んだ方向に視線を巡らせる。男だったけど、誰だろう。雪成でも中塚でも駒田先輩でもない。


「久しぶり」


おーす、と軽く近づいてくる。きらりと光るピアス。思い出した、名前。


「くず」

「あ?」

「久住毅さん」

「おお、よく覚えてたな鳥頭」

「就活中」

「無事にうちの社に決まりましたー」

「卒論終わって卒業できると良いですね」

「お前それ言う!?」


わたしのお見合い相手で、わたしに蕨で働けと言ってきた張本人だ。

屈託なく笑う姿に少しの安堵を覚えるのは、わたしが緊張していたからだろう。このうえなく、緊張している。雪成があの日家に来たときよりも。

そう考えると、この人はわたしの人生である意味分岐点の場所で立っているのかもしれない。最近会って、名前と誕生日くらいしか知らないひとだけれども。


「どうしたんですか、こんなところで」


卒論書かなくて良いんですか、と繋げようとして止めた。毅さんが人差し指で上を示していたから。久住製薬と株式会社蕨が手を組めなかったのはわたしと毅さんが原因といっても過言ではない。見合いは破談になった。だというのに、この人は恐れもせずに祖母に会ってきたらしい。


「呼び出されました?」

「いや、一応顔を出しておこうと思って。社長退任するって聞いたから」

「毅さんのそういう所、尊敬するけど真似できない」

「鉄面皮ってことか」

「怖いもの知らずってこと」


喜ぶべきか迷っているのか、一瞬眉を顰めた。目がピアスに行って、ふと気づく。そういえば、純さんもピアスの穴が大量にあった。アクセサリーじたいを付けているのを見ないから忘れていた。まあ、つけて行ったらあの服装検査で煩い月出先生の目に留まってしまうのだろうけれど。

毅さんはわたしの視線が耳に行っていることに気付いたのか、口を開く。


「これひとつ失くしたんだよ」

「え?」

「こっちにつけてたやつ」


右耳に触れる。確かに無かった。わたしはピアスばかり見ていたのにそれに気付かなかった。


「本当だ」

「どっかに落としたんだろうけど」

「見つかると良いですね」

「うん。引き止めて悪かったな、じゃあ」


そう言って、わたしたちは擦れ違った。

エレベーターのボタンを押す。「あ、今度恋バナしよーぜ」と背中に言葉がかかった。思わず苦笑いをして、会釈で返した。


関係者以外は立ち入り禁止というその階にはやはり今日もしんとしていて、その廊下を歩いた。祖母の病室番号はあやふやだったけれど、きちんと名前が書かれていたので間違うことなくたどり着けた。

解けていた緊張が戻ってくる。嫌に心臓を締め付けて、バクバクとさせる。

ノックをしたけれど、返事がない。検査でいないのかもしれない、と思ってゆっくり静かに扉を開ける。

祖母はいた。無視されたのだと思って恐る恐る入ると、目を瞑っていた。たぶん毅さんが持ってきたのであろう見舞いの品が窓際の棚に乗っている。


「何か用かしら」


静かな声に、心臓が跳ねて小さく息が漏れた。祖母はゆっくりと目を開けていた。




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