幼馴染は鎖骨を噛む。
夏祭りは行ったことがない。遠くから見たことはあるけれど、人混みが嫌で行きたいと思ったことはなかった。
階段と上ろうとするわたしの手を止めた。雪成の方を振りむく。
「夏祭り行きたくないの?」
「そういうことじゃなくて。楓、喪中だろ」
「あ」
だから神社は駄目だ。目の前にあるのに、行けないなんて悲しい。
「……行きたい」
「来年、浴衣着て一緒に来よう」
「杏飴食べたかった。綿あめも、チョコのやつも」
「チョコバナナ?」
「それ!」
うんうん、と雪成は聞いてくれる。その顔に疲れが見えて、申し訳なくなった。
今雪成と一緒に帰っているのはわたしの勝手な我儘で、雪成は予備校で受験勉強をしてきた帰り。
「ごめん、もうしない」
「え、何したの」
「もう予備校帰り待ったりしない。疲れてるのにごめん」
顔を覗き込まれた。泣いてる? と聞かれる。泣いてない、と首を振る。
それから笑われた。
「なんで、嬉しかったのに」
「雪成はそうやって気を遣う」
「遣ってねーから。ほら、露店は出てるから杏飴買おう」
「だって」
「楓、人間らしくなったよな」
人間らしい、とはどういう意味だろう。
わたしは人間でなく見られていたということ?
雪成に手を引っ張られて、杏飴を売っている露店に近づく。雪成がひとつ買ってくれて、杏飴を受け取った。外側に飴がコーティングされていて、キラキラとしている。あ、キラキラして見えるのは透明な袋に提灯の灯りが反射しているからか。
「ベンチ座って食べる?」
「食べ……ない、家で食べる」
「人間らしくなったって言ったのは、楓が自分の思ってることを言うようになったと思ったからなんだけど」
「じゃあ前は何だと思ってたの、蝉?」
「蝉? なんで蝉?」
「意味は特にない」
結局ベンチへ進んでいる。雪成が座る隣に腰を下ろす。教科書やノート入っている鞄は重い音をたててベンチにおろされる。
わたしは透明な袋を取って、飴を舐める。口に入る程の大きさで、確かに杏の味がした。美味しいかどうかは置いておいて、縁日で食べると楽しいのはわかる。雪成は楽しげにわたしの方を見ていた。
「美味しい?」
「ん、食べられて良かった」
「良かったな」
食べる? と聞くか迷ったけれど、流石に自分の口に入れたものを人にあげるというのは気が引けた。
「楓、これちゃんと持ってて」
杏飴を指差して、雪成が言う。勿論、と視線を戻すと、雪成の顔が近付いていた。啄むように口付けされて、下唇を吸われる。ちゅ、と鼓膜に響いた音に肩が震えた。甘い、と雪成が呟く声が聞こえて、口の中をざらりと舐められた。飴を持つ手の力が抜ける。するりと落ちそうなのを雪成の手が重なって防げた。どうしたら良いのか分からなくて、空いている片手でわたしの輪郭に添えられている方の腕を掴む。
遠くで太鼓と笛の音が聞こえる。
「あ、べとべと」
雪成に解放されて、杏飴を持つ手がべとべとになっていた。雪成の手も。
「手洗おう」
「待って」
「……立てない?」
夜で良かった、暗くて良かった、公園で良かった。外でこんなことをするのは初めてだし、夢中になっていたけれど誰かに見られていたらと思うと、顔から火が出る。いや出てる。腰抜けて立てないし。
ごめん、と雪成に謝られる。
「いい、先に帰って良いよ」
「いや、置いてくわけねーから」
「だって……」
さっきから『だって』ばかり言っている。祖母からその言葉は遣うなと昔注意されて、ずっと遣っていなかった。
雪成はわたしが回復するまで待つことにしたらしく、ベンチに座り直した。わたしの手も雪成の手もべとべとのまま。
「……勉強大変?」
「大変だけど、受験生だから仕方ない」
「わたしと付き合うの大変?」
「今日はなに、何の日?」
うじうじと聞くのが面倒になる。雪成も遠回りな質問を不審に思っている。
「雪成、急になんだけど」
「さっきから色々急だな」
「噛ませて」
「かませて?」
うん、と頷いて距離を近付ける。シャツの隙間から鎖骨がちらちらと見える度、わたしの心が落ち着かなかった。右鎖骨下に噛み付くと、骨に当たるようながりっとした感覚。いってえ! と雪成が言う。
歯型がついた、気がする。暗いからよく分からない。わたしの気持ちが治まったのでどっちでも良い。やっと噛み付けた。わたしは元々、雪成の肉も骨も砕いて食べたい人間。本気でそう思っているわけではないけれど、最近のドタバタでそれを見失っていた。
「力いっぱい噛んだな」
「ごめん。でも気が済んだ」
「それは良かった、で何だって?」
鎖骨を擦る雪成にもう一度謝る。
「えっと、わたしね、蕨の会社に入りたいと思ってる」
「うん、頑張れ」
「で、幹部にならないといけない」
「もっと頑張れ」
「頑張……るんだけど」
「それはそのとき考える」
雪成に左腕を引かれる。嫌な感じはしなかった。すんなりと立てた。
杏飴を持って、公園の水場で手を洗う。ポケットに入れてあったハンカチで水を拭って、また手を繋ぐ。
「今の楓が今の俺に負担だとか思ったことはない」
「本当?」
「本当。鎖骨噛まれてまでこう言ってる」
「ありがと」
「楓が何になっても、俺は好きだよ」
そんなことを言われて、泣かない人間がいるのだろうか。
うううう、と泣き始めたわたしを前に雪成が笑う。こんなわたしを笑うのは雪成だけだ。
わたしも好きだ。雪成だけを好きだ。愛情表現が狂っているとか可笑しいとか言われても、これがわたしだ。そのわたしを好きだと言ってくれる雪成が好きで、言ってくれない雪成もきっと好きだ。
幸せだ。
今なら、雪成を殺して、わたしも一緒に地獄に堕ちても良い。
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