幼馴染は泥を吐く。


夢見が悪いのは今に始まったことじゃない。

暗闇の中でわたしは誰かを待っている。ここは泥沼だ。入ったのなら最期、ずぶずぶと足を取られ、息もできない沼地の中に引きずりこまれる。わたしはそこに、ずっとそこにいる。

近くを誰かが通った。手を伸ばす。

振り向いた。こっちを見る。

目があった。手を下ろす。

ぼたぼた、と手から何かが落ちた。掴んだ泥が落ちたのかと思って見れば、わたしの左には腕がついていない。泥だけが沼の中に同化していく。

わたしは泥まみれだったんじゃない。

わたしが泥だったんだ。



目を覚まして、左手を見た。右手で何度か触れる。皮膚と、その下に温かい血が流れ、肉と骨が存在している。左手を額に当てた。酷く汗をかいている。

昔から左利きだった。母方の祖母はそれを直そうとしたけれど、母が阻止したらしい。この家に来て最初、こちらの祖母にも矯正されたけれど、わたしは断固として右利きにはならなかった。母が守ってくれた利き腕だから。

だから大事にする。

時計を見ると朝の五時半だった。食欲は湧きそうにないので、顔だけ洗いに部屋を出た。


「か、楓さん……おはようございます。今日はお早いですね」


ちょうど台所から出てきたお手伝いさんがわたしの姿を見て怯えて驚いた。薄暗闇の中で、宛ら幽霊にでも見えたんだろう。この前保健室で会った駒田先輩の反応は見慣れたものでもある。

朝食は要らないと伝えると、困った表情をする。抗議される前に台所を去った。洗面所に入って鏡を見ると、確かに幽霊と間違えても可笑しくないくらい顔色の悪い自分がいた。

顔を洗ってタオルで拭う。左手も右手も鼻も目も、溶けてなくなりはしない。

歯を磨いて洗面所を出ると、雨戸の開けられた部屋から漏れた光が眩しく感じた。身体が怠くて、目を擦る。前から聞こえた足音に顔を上げた。

いつもなら見えないふりをした。見えないと思うと、本当に見えなくなるものだ。もしかしたらずっと見ない父親も、わたしは見えないものとしてしまったのかもしれない。でも、祖母はいつも視界に入る。

醜いものを見る顔で、こちらを見ている。


「邪魔よ、私の前に立たないで」


そうしてわたしの横を通り抜ける。


「大奥様、おはようございます」

「おはようございます。今日赤羽さんは何時に来るの?」

「九時には来られるそうです。すぐにお部屋にお茶を運びますね」


曲がった所でお手伝いさんとの会話が聞こえた。壁に右肩を寄りかけて、なんとなく聞いていた。

死にたいと思ったことは何度もある。死んでしまえと思ったこともある。わたしが泥の中に引き摺り込みたいのは、嫌いで憎くて殺しても良いと思う相手だけで良い。

良いはずだ。


「ところで、あの娘はいつまで学校に通うのかしら?」


一緒に生きられないのなら、一緒に死のうだなんて。







わたしの誕生日まで二週間。

保健室にかかったカレンダーを見て考えた。考えたところで何も出ないけれど、この身体の怠さから開放されるなら何でも良かった。

純さんが二時間目の終わりに保健室へ来て、心配そうな顔で覗いていた。それが何時間前だっけ、と次は時計を見る。

わたしの身体も健康生活に慣れたみたいで、昼になると少しお腹が空いてきた。怠さとは関係なく空腹を感じるのだから、やっと生理的な感覚が戻ったんだろう。

昼休みに再度保健室に来てくれた純さんがりんご入りヨーグルトを買ってきてくれて、それを昼ごはんに一緒に食べた。午後からは教室に行こうと思って、保健室を出る。


「行こうかなって言ってたけど、四時間目終わりからずっと眠ってたみたいで置いてきた」

「中塚?」

「うん。三時間の体育の後にお弁当食べてたけど」


人懐こいわけでもないけれど、中塚は純さんと普通に仲良くしている。わたしからしたら、中塚のほうが“すごい奴“だと思う。

渡り廊下を歩いていると、前から聞き慣れた声が聴こえる。雪成と、その隣に駒田先輩。そしてもう一人、女子の先輩。初めて見たその人は雪成と楽しそうに話している。思わず少し口が開いた。

すれ違う。雪成はこちらを見ていない。

わたしがきっと、見えなくなったんだろう。

純さんはすれ違った後、その三人を少し振り向いていたけれど何も言わなかった。わたしも何も言わずに、ずんずん歩いた。苛々している。わたしの苛々は大抵理不尽であることは、自分でよく分かっている。


「なかつか、中塚」


教室に帰って突っ伏して眠っている中塚を起こす。呼びかけても起きないので、机を揺らした。


「うおっ、すみません、はい!」

「なに寝ぼけてんの」


純さんが横でふっと笑った。目をぱちくりさせた中塚は心臓の辺りに手を当てて「びびった……」と呟く。びびらずともわたしは中塚に用がある。


「さっき雪成の隣歩いてた女子だれ?」

「は、んな知るわけないじゃん。今の今まで眠ってたんだけど」

「だろうね。わたしは全然今日眠れなかったけどね」


完全に八つ当たりだ。わたしは立ち上がって教室の出入り口へ向かう。純さんから「あと十五分だよー」という忠告を受けて左手を挙げた。

渡り廊下へと早歩きする。先程すれ違った場所を通って三年生の教室がある棟へ行った。そういえば雪成のクラスなんて知らない、と今更思うけれど、なりふり構うもんか。……という意気込みも散って、三年生の教室は殆ど静かだった。見つけてやる、というより、残っていて欲しいという願いの方が強くなってくる。

あ、いた。

後ろ姿は何度も見ているのでわかる。制服姿でもそうじゃなくても。

早歩きの続きでその姿に近付いた。背中のワイシャツを掴む。一瞬固まって、雪成が振り向いてこちらを見た。


「どうした?」

「午後の授業の、教科書」

「うん」

「持ってくるの、忘れたから、貸して」


結局泣いていた。

ぐずぐず泣くわたしを困りながら、少しはにかみながら、雪成は破顔した。「俺持ってねーけど」と付け加えて。

胸ポケットに入っていたネクタイでわたしの顔を拭う。それってマナーとしてどうなのかと思ったけれど、まあいいかと諦めた。わたしもハンカチなんて持っていないから。


「知り合いの一年に聞いてみるから。そんなことで泣くな」

「ん」

「六時間目終わるまで待ってる。アイス買おーぜ」


頷く。

右手を引かれて渡り廊下を歩く。額を肩口につけると呻き声をあげる雪成。迷惑そうにこちらを見た。そういえば、私が知りたいことを未だ尋ねていない。


「さっきの女子だれ?」

「女子?」

「ここで話してた」


それを示すと、思い出したような顔をする。「紅浦のことか」と言われたけれど同意すれば良いのか否定すれば良いのか。

眉を顰めれば「紅浦は、」と続けられる。


「生徒会の副会長。二年生」

「二年、副会長」

「俺は会長」

「知ってる」

「え、なんで」


その質問に答えるより先に一年の教室の前に着いた。わたしの隣の教室だった。雪成が出入り口近くにいる男子に誰かを呼んでもらい、すぐに違う男子が廊下に出た。雪成が言うとわたしのクラスの次の教科書がぽんと渡される。言ってないのに何で分かるの、と疑問を呈したいところだったけれど、二分前だったので感謝を述べた。

いいえ、と爽やかな返事を貰って自分の教室へ戻る。じゃーな、と背中を押されて教室に入った。

入ったところでチャイムが鳴る。

ガタガタと席につくクラスメートに混じって、わたしも座る。中塚がきょとんとした顔でこちらを見ていた。


「なんで教科書持ってんの?」

「あ」


自分の机に放り出されていた教科書。同じ表紙のそれを今手に持っている。しかも隣のクラスの知らない男子から借りてきた。

後でちゃんと返そう、と静かに机の上に置いた。




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