幼馴染は運命を恨む。
昔はよくぶっ叩かれた。
畳の縁を踏んでよく叩かれたし、箸のマナーが悪いと言って叩かれた。それで自分の血を見るのは珍しいことではなかった。
叩かれて反抗してまたやって、叩かれる。悪循環。自分の尻尾を追いかけているようにぐるぐると同じ場所を廻っている。そのことにわたしは気付かなかった。祖母もまた、気付いても気付かないふりをしていたのかもしれない。
頑なに左手で食べるわたしと祖母が一緒に食事をしなくなったのは中学に入ってからだった。赤羽さんがたまに居間にいるけれど、ニュースと新聞をチェックしていることが多い。
「楓さん、着物の用意できましたので学校からお帰りになったら合わせてみましょう」
「んー」
「殿方の釣書は見ました?」
ううん、ときっぱり首を振る。それを見て、赤羽さんは呆れたような困ったような顔をしていた。自分の釣書すら見ていないのに他人の釣書を見る気にすらなれない。
そんなの想定なのだろう。祖母も赤羽さんも何も言わない。
「ごちそうさまでした」
手を併せる。確かに祖母と食事をしなくなって数年が経つ。でも、根強くわたしの行動にはあの人から毎日うるさく言われた作法が残っている。それは無意識に激しい主張もなく出て来る。この前、純さんに「お箸の持ち方が綺麗」と言われてそれを感じた。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
もうすぐゴールデンウィークがくる。
クラスメートは浮足立っている。中塚は小テストの為にぶつぶつと呪文のように英単語を唱えていた。わたしはそれを聞きながら一緒に英単語帳を開く。
何気なく教室の扉を見ていると、雪成が顔を出した。そんな偶然に驚いて瞬きをすれば手で呼ばれる。英単語帳を持って教室を出た。目の前を通った一年生が「逆井先輩、こんにちは」と挨拶していく。顔も名前も知らないひとだった。雪成も挨拶を返す。わたしは歩いてその隣に立った。
「逆井先輩こんにちは」
「全然気持ちがこもってねーんだけど」
「わたし、次の授業小テストある」
「お忙しいところすみません。欲しいもの、なんかある?」
欲しいもの? と復唱。
「誕生日だろ」
ん、と頷く。欲しいもの、と考える。
階段の方から英語の先生が来るのが見えた。雪成はわたしの返事を待つ。にゃあ、と窓の外から一瞬猫の声が聞こえた。
「雪成」
「は?」
「雪成が欲しい」
「なんだそれ」
「うそ」
ふふ、と笑ってみせた。きょとんとする雪成を置いて、先生よりも先に教室に入る。席に座って小テストの範囲のページを開く。机に突っ伏していた中塚が起きて、机上で腕を伸ばした。「蕨野ってさ」と徐に口を開く。覚えた英単語が出ていかないように返事はせずに視線だけ向けた。belong、consume、depend……。
「生徒会入んないの?」
「ん」
「入ったら会長と一緒にいる時間増えるし、会長も本当は入って欲しいって思ってるかもしんないし」
「何が言いたいの」
先生があと一分、と言った。ページから目を離さずに尋ねる。中塚は余裕なのか、単語帳を開く気配はない。
「……会長が不憫だ」
「不憫?」
「三年だぞ、あの人。受験生なのに生徒会長もやって、蕨野の」
「だから? なんで中塚が雪成のこと不憫に思うの? わたしに喧嘩売ってる?」
「売ってない。お前と喧嘩して何の利も生まれない」
「あーもう、単語が出てった! 中塚の所為!」
「はあ!? それは元々勉強してなかった自分の……」
静かになっていく中塚の声。教室中の視線がこちらに向いていた。先生が呆れたようにプリントの束を叩く。
「もう大丈夫か?」
すみません、と二人して謝った。
「中塚が小姑みたいに煩いことばかり言ってきた」
「生徒会の話しただけだろ!?」
「雪成が不憫とか言い始めるから」
「もうやめなよー」
のんびりした声で制止をかける純さん。手には小さなバームクーヘンが乗っていて、個装のそれをペリペリと破いている。「まあまあ、これでも食べて」と純さんが配り、ひとつわたしの手元にあり、中塚のところにもひとつある。
「わたし、頼んでない。出欠確認してほしいとか、教室来てほしいとか」
「それは知ってる」
「雪成が勝手にしてるだけで、わたしは来ないでって言った」
きょとんとした顔で、純さんは問う。
「逆井先輩と楓ってどんな関係なの?」
ぺりぺりと袋を破く音。中塚がバームクーヘンを食べ始めた。
その質問に口の端がぴくりと痙攣した。初めてのことで、左指を当てる。答えを探している。頭の中だけではなく、全身を。どこかに答えはあるはずで、落としてなんかいないはずで、誰かに盗られてもいないはずだ。最初は普通に、わたしの左手に収まっていた。
「幼馴染」
「ただの?」
「ただの幼馴染ですけどなにか」
「あたしも中塚も楓のこと面白がって訊いてるんじゃないよ。楓がムキになるから知りたいの」
ひとつ上なだけあって、いや頭が良いだけあって、純さんは分かりやすく話した。理由と結果。確かにわたしはムキになっていた。その原因も分かっている。でも、それを知られるのが嫌だった。
嫌なのは、口にすると実感するからだ。
口にした途端、それは声になり言葉になり形を持つ。
「それはさ、わたしが雪成を好きだから」
さらりと口から溢れた。
けほっ、と中塚が噎せる。可哀相に思ったのでその背中を叩いてあげた。静かな放課後の教室にチャイムの音が響いた。
「血を啜って内臓を溶かして肉を貪って骨を噛み砕いても良いくらい」
二人の顔が一瞬固まる。「なんてね」と付け加える。なんてね、なんてね。
わたしもバームクーヘンを食べて教室を出た。廊下の窓が開いていて、入ってきた緑の香る風。春が去っていく。
赤羽さんが部屋に来て呼ばれる。
久しぶりに来る祖母の部屋の前。中に入ったのは数度で、良い思い出はひとつもない。よって、わたしはここでいつも吐きそうになる。
ぐらぐらと脳味噌が揺らされている感じ。思わず額を押さえると、赤羽さんが「大丈夫ですか?」と心配そうに顔を覗き込んできた。大丈夫なわけあるか。今すぐここを離れて縁側に戻りたい。赤羽さんの面子を潰してでも、と思って落ち着く。そんなことはしない。そんなことを出来るくらい子供ではなくなった。
大丈夫、と答える。膝をついてノックをする。「お入りなさい」と返事があって、静かに開いた。
畳から視線が上がらなかった。
「早くなさい」
「……ここで、結構、です」
「そう。知ってると思うけど、今週末にお見合いがあります。相手は久住製薬社長の息子さんよ、失礼のないように」
一方的な物言い。ずっと嫌いで、これからもきっと嫌いだ。
「返事は?」
「……はい」
襖を閉めた。赤羽さんが小さく息を吐いたのに気付いた。この人はいつも、わたしと祖母が二人きりにならないように気を遣ってくれる。その気遣いに何度救われたことか。
そして今も救われている。
頭が痛い。立ち上がってふらついていると、肩を支えてくれた。長い廊下を歩く。お腹がきりきりと痛い。もしかしたら母親もこれを感じたんじゃないか、なんて勝手に想像してみる。
部屋に戻ると、いつもの黒猫が縁側で丸まっていた。わたしが現れて、はっと顔を上げる。青い目がわたしを捉えて、細めた。
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