閑話
曼珠沙華は煙を撒く。
錫見家長女の身辺警護を任された男、内海藤吾は同期の中で問題を起こしたことがないと言われるほど穏やかな男であった。
同時に、喧嘩させるなとも言い付けがあった。組長直々の御達しだ。
そんな男が過去二度、顔に痣を作ったのを見たことがある。
一度目は、あたしが小学二年生のとき。まだ内海がヘビースモーカーで煙草をぷかぷかさせている近くで、あたしは誘拐されかけた。すぐに気付いた内海が助けてくれたけれど、その夜内海はたぶん爺にお灸を据えられた。赤くなって青くなった顔の痣を見て、あたしは何も言わなかった気がする。何を言っても内海は謝るだろうし、あたしだって謝るしかなかった。
二度目は、あたしが中学三年の春。車に放置されていた内海の煙草を盗んで部屋のベランダで吸っていたのが母にバレたとき。思春期だとか一人で外出出来ないとかストレスが溜まってやったこと。どう考えてもあたしが悪いのに、内海も巻き添えを食って怒られた。
以上の通り、内海が怒られる根本にいつもあたしがいる。本人はいつも飄々としているけれど、本心は小娘の子守なんてやってられっかって感じだと思う。実は初めて会ったときは酷く苦手で話をするのも怖かった。いや、世間話どころではなく事務連絡ですら。
ベランダから内海が家の前まで車を持ってきたのを見た。運転席側のドアによりかかり遠くを見つめてている。あれから煙草を吸っているのを見たことがない。うちの中は禁煙と父が決めているので外で吸うしかないのに、内海は煙草を止めたか、あたしの知らないところで吸っているのかもしれない。
学校の鞄を持って、リビングに顔を出した。シベリと父と母に「行ってきます」と言って玄関まで行く。後ろから母の足音がして振り向けば、お財布からお金を出してきた。諭吉と目が合ってしまう。
「お小遣い」
「要らないよ」
「楓ちゃんとお茶でもしてきたらどうなの。折角仲の良い友達が出来たんだから」
「そういうの行きたがる子じゃないの。もう行くから」
ローファーに足を入れると更に軽い足音が聞こえる。置いた鞄の横に行儀よく座っているシベリが青い目をこちらに向けていた。行ってくるね、と頭を撫でると尻尾を少し振ってくれる。「行ってらっしゃい」という母の声を背にして家を出た。
全身真っ黒のスーツを着た内海があたしに気付いて頭を下げる。内海はうちの近くのマンションに住んでいて、あたしを学校に送るために早く起きてくる。そんなのを今まで、あたしが小学生から十年もやってきて、今年で十一年目だ。
助手席の扉を開いて車に乗り込む。足元にきらりと光るものが見えて、屈んだ。運転席に内海が乗って、こちらを窺う気配がした。光ったものはピアスだった。リング状になっているそれを内海の方へ差し出す。
「落ちてた。彼女の?」
「……友人のです」
何の友人だろう、なんて意味深なことを思ってみる。
「内海って結婚しないの?」
内海の手に渡ったピアスは灰皿に乱暴に放り込まれた。久しぶりに開けられたそこは灰のひとつも入っていなくて、プラスチックの音が響く。エンジンをかけた内海は怪訝な顔をしてこちらを見る。
これが、あたしが男の上司で内海が女で部下だったら、セクハラで訴えられてもおかしくない発言だった。今ってこういう時代だ。あ、でも雇用主とかの関係もあるのかな……あたし訴えられたら勝てない状況?
「そういう質問は、彼女がいて初めて成立するもんですよ」
「彼女いないの? 内海、二十九歳でしょう?」
「いないですし、結婚するつもりもないです」
「日本の少子化に繋がる瞬間を見ちゃった」
「日本の心配をするのは、高校を無事卒業してからにしてください」
そうでしたそうでした。あたしは普通のひとより一年多く高校に通うことになっている。去年の二学期の頭に風邪をこじらせて二か月程学校に登校できなかった。友達は小学校、中学校と変わるにつれてリセットする関係が多かった。高校に入って、クラスメートとは片手で数えるくらいしか会話をしていない。すぐに親がヤクザだと噂が広がり尾鰭が沢山ついて、生き物みたいに一人歩きした。長期間休んだ後にその教室に入るのには勇気が要った。
結局あたしは今年になるまで教室に行くことが殆どなかった。
「楓がいるから大丈夫だし」
「最後までドロップアウトしないとは限りませんよ」
「逆井先輩がちゃんと卒業する限り、楓は絶対に学校来るよ」
「楓さんの彼氏ですか?」
「うん、最近付き合い始めたみたい」
学校の裏門に着いて、車を降りる。まだ時間が早いので、登校している生徒は少ない。あたしはドアを閉める前に「行ってきます」と内海に言う。
「行ってらっしゃい。今日も同じ時間に迎えに行きます」
「よろしく」
ばたん、とドアを閉めた。
それが今日、内海に会った最後だった。
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