幼馴染は青を差す。


あの祖母の息子だ。

昔から、母親が生きていた頃から忙しい人だった。あまり家に居ない、休日はよく母親と出かけた。でも、母親は父親の帰りを夜遅くまで待っていた気がする。料理はあまり上手くなかったけれど、父親のコップにビールを注ぐのが楽しそうで、それは少し羨ましかった思い出がある。

それはそれ、これはこれ。

目の前にいる父親は紛れもなく祖母の血をひいている。だというのに、祖母の余命宣告に表情ひとつ変えない。

人間なのか、この人は。


「家にいないということは、そういうことでしたか」

「はい、五月の頭頃から入院されています」


赤羽さんが淡々と話していく。


「ステージⅣですね」

「そうです。既に他の臓器にも骨にも転移があります。ここまで何もお報せしなかったこと、申し訳ありません」

「赤羽さん、頭を上げてください」


ぺこ、とお辞儀をしたままの赤羽さんに父親が声をかける。

この部屋の空気はとても穏やかだった。


「知らせなかったのは社長の意向でしょう。あの人はそういう人ですから。それで、これからどうすることにしたんですか?」


緊張感がない。この家全体に、張り詰められていた糸が緩んでいる。


「社長はホスピスに入ると仰っています。そこで、お二人の意見を伺いにお呼び立てしました。今週の土曜日の午前中は空いてますか?」


赤羽さんがわたしの顔を窺う。頷くと、少し疲れた顔で微笑んだ。途端に申し訳ない気持ちになる。


「では午前中に病院へ向かいましょう。よろしいですか?」

「はい。赤羽さん、色々とありがとうございます」


父親が頭を下げた。赤羽さんがぎょっとした顔でそれを止めるが、効果はない。


「とんでもないです」







紫陽花が咲いている。深い青に吸い込まれそうになる。梅雨は湿気が嫌いだけれど、紫陽花は結構好きな方。庭にも咲いていた気がする。紫陽花の花言葉が良いものばかりでないのは雪成に教わった。


「ちげーよ、lendじゃなくてrent」


そのときは優しかった。


「わかってる。何回も言わなくていい」

「何回も言わせんな」

「これは文脈が悪い」

「問題のせいにしない」


く、と口を噤む。大体において日本人なのに英語が出来ないといけない理由がない、と言ったら「そういう問題じゃない」と雪成先生は仰るのでしょうね。はいはい予想はできます。

わたしがこうして口応えしているうちはまだ良くて、完全に黙りになると雪成が機嫌を取ってくる。受験の時期はそんなことが毎日だった。

教室からさっさと追い出されてしまって、雪成の予備校近くのファーストフード店に入った。テーブルの周りにも違う高校の制服が見える。どこも中間試験前らしく、静かにノートと教科書を開いていた。雪成は自分の勉強をしつつ、わたしが分からないところを教えてくれる。

ノートの端にlendとrentの違いについて雪成が書いてくれた。


「明日」

「ん?」

「俺の家来る?」

「え」


手を止めて顔を上げる。雪成は手を止めずにノートを見ていた。わたしの視線に気付いて、こちらを見る。


「親いないから、勉強しに」

「良かった。挨拶しないといけないかと思った」

「そっちか」

「どっち?」

「あ、弟はいる」


雪成の弟、雨音。小学生の頃に何度か話したけれど、最近は全く見ない。中学と高校が反対側にあるということが関わっているのかもしれない。会えるなら、久しぶりということになる。

久しぶり、で思い出した。


「午前中は病院に行くから、午後からなら」

「病院?」

「祖母が入院してるんだって。それで昨日父親も帰って来た」

「それ大丈夫なのか? 明日別に……」

「大丈夫、絶対行く」


昨夜はお手伝いさんが豪勢な夕食を作って、お手伝いさんたちと赤羽さんも一緒に席についた。父親が帰るといつもこういう習慣がある。わたしは試験勉強を理由にすぐに抜けて、部屋に戻った。月明かりの差す縁側で黒猫が丸くなっている。背中を指で撫でると、少し目を開けて赤い口を見せた。

居間の方では笑い声が聞こえる。父親は静かなひとだ、というイメージがある。少なくともよく笑うひとではない。冗談もあまり謂わない、気がする。つまり、わたしはあまり父親のことを知らない。

知らなくて良いと思っている。


「入院ってことは」

「肺癌、だって」

「うん」

「余命一ヶ月、だって」


相槌がない。雪成は、わたしと祖母の確執にたぶん気付いている。


「そんな深刻な顔しないでよ」

「してねーこともないけど」

「人なんて、いつかみんな死ぬんだから」


前髪を梳かれるように撫でられた。突然のことで驚くけれど、されるがままになった。


なんとか試験範囲の半分を終えて、雪成の背中が見えなくなるまで見送ってから、家に帰った。父親も赤羽さんの姿もない。

部屋に入って縁側の戸を開けると、外に紫陽花が咲いていた。種類はよく分からない。雪成は知っているのかもしれないけれど、あれから、あの夜から雪成がここに現れることはない。

黒猫が今日は来なかった。




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