7 祝詞
眠れない。
時計を見ると、もう午前一時だった。
なのに、まだ父は帰ってこない。
どう考えても異常な事態だ。
母は父を制止しようとあわてて後を追ったようだが、一時間ほどして帰ってきた。
結局、見つからなかったらしい。
心配した御華子に向かって、たぶんお父さんは麻に鳴るまでには帰ってくると言っていたが、本人もその言葉を信じているいるようには思えなかった。
客である御子神には悪いことをしてしまったという。
自分が余計なことを言ったのではないかとひどく後悔していたのだ。
だが、そんなことはないとなんとか御華子は彼をなだめた。
一体、なぜ父はあんなに焦っていたのだろう。
そもそもどこに向かったのかすら、見当がつかないのだ。
相変わらず窓の外では強風が吹いており、家全体がぎしっぎしっときしむ音をたてて揺れている。
不安だった。
なにより恐ろしかった。
絶対にこんなことはあってはならないが「このまま父は生きて帰ってこない」のではないかという強い予感があるのだ。
こんなことは、人生でも初めてだった。
つい、蛇権現様に祈りたくなってしまう。
蛇権現様は、この龍蛇の豊漁を約束してくれるとてもありがたい神様なのだから。
さらにいえば、御華子は蛇権現様の「妻」として選ばれていた。
「御華子」という名前は、蛇権現様の妻に与えられる、とても栄誉あるものなのだ。
妻といっても、もちろん神様に実体など存在するはずがない。
だから、ある年齢になったら神事に加わり、神様にむかって特別な祝詞を唱えることになる。
それにしても、奇妙な祝詞だった。
奇妙な一節を、完璧に御華子は暗記させられている。
ふんぐるい・むぐるうなふ・くとぅるふ・るるいえ・うがふなぐる・ふたぐん
一体、なにを意味する言葉なのだろう。
一般的な神道の祝詞とは明らかに響きが異なる。
どう考えても、日本語がもとになっているとは思えない。
たぶん外国の影響を受けているのだろうとも思うが、いままでこんな独特な感じの外国語など聞いたこともなかった。
もし御子神に話したら知っているかもしれないが、それは出来ない。
この神聖な祝詞をよそ者に教えたりしたら、御華子としての資格を失うどころか、蛇権現様に祟り殺されるという。
実際、いままで何人か、この秘密の言葉を外部に漏らしたものが、海で溺れ死んだりしているらしいのだ。
蛇権現様は海に住む海神なので、祟りは必ず海がらみのものになるという話だった。
馬鹿馬鹿しい、とは思わない。
幼い頃から繰り返し聞かされてきたため、蛇権現様の祟りにだけはあいたくない、と心の底から思っている。
もはや一種の洗脳といってもよいほどだ。
だが、両親も、集落の人々も自分に御華子、つまり「神の妻」としての役割すべてを教えてくれているわけではないと思う。
子供の頃から「大人になったら」という話をした途端、両親ともひどく哀しげな顔をしていたのだ。
いつまでも子供でいればいいのにな、と何度、聞かされたかわからない。
だから、ある予感がしだいに心のなかで育っていった。
ひょっとすると、自分は大人になったら、なにかとんでもない目に遭わされるのではないか、と。
小学校、中学校と卒業するたびに、両親は喜ぶどころか、沈んだ顔をする。
誕生日のときも、表向きは幸せそうだが、それが作り笑いであることに御華子は気づいていた。
子供は敏感で、親の嘘はすぐに見破ることができる生き物なのだ。
まだ早すぎる。
確かに父はそう言ってた。
さらに「娘の命がかかっている」とまで口走っていたのだ。
不審者が窓の外にいたくらいで、そんなことを言うはずがない。
あることに思い至り、ぞっとした。
ひょっとすると、窓から覗かれたり、ストーカーじみた視線を感じるのは、なにかの「下見」のようなものなのではないだろうか。
つまり御華子がもう子供ではなく、大人になったかどうかを確認している、ということも考えられる。
現代の法律では、十八歳で成人になる。
しかし、法律などというものは変わるものだ。
事実、数年前までは二十歳で成人だったのだから。
つまり、子供が大人になったかどうかというのは、あくまでも主観的な判断にすぎないのである。
少なくとも肉体的には、御華子はある意味では大人、なのかもしれない。
生理もとうにきているし、胸もお尻もあまり大きくはないがそれなりに発育している。
たぶん、その気になれば子供も産めるだろう。
もっとも奥手なので、彼氏をつくったりすることすら考えたこともないが。
神の妻というのは、ひょっとすると神様とすべきことをしてその子供を産むのが本当の役割、ということもありえる。
ただし、神には実体がないのだ。
実体のない存在の子供が産めるはずがない。
そのとき、ある恐ろしい考えが脳裏に閃いた。
ひょっとしたら、神というものに実体があるとしたら。
あるいはなにかの生き物を、神の使いのようなものとして信仰している、という可能性もあるのだ。
だが、さすがにこれは考えすぎだと苦笑した。
もしそうだとしたら、人間以外の生き物と混血生物がつくれることになってしまう。
生物学の常識として、そんなことは決してありえないのだ。
その瞬間だった。
窓の外で、黒い影のようなものがゆらめいたような気がした。
まさかとは思うが、謎の相手がまた「下見」に来たのだろうか。
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