8 命令

 もう、自分はいままでの公安刑事としての人生観を完全に破壊されてしまった。

 人間同士の諜報戦がただの冗談にしか思えぬ「本物の悪夢の世界」を知ってしまったのだから。

「しかし、対象甲も案外、だらしがない……まるで対象乙をかばうような行動を見せているな。奴の性格からして、ありえんとは思うのだが……」

 それは伊藤も気になっていた。

 対象乙というのは、対象甲が泊まっていた民宿の娘である。

 さきほど一度、「マーメイド」たちに捕獲され「集会所」に入るまで、対象甲は傍若無人といえるほどに暴れまわっていた。

 だが外に出てきてからは、対象乙をかばうような動きを見せている。

 さらによくわけがわからないのは、対象甲から一時的に、あのおぞましい触腕が失われたことだった。

 龍蛇集落すべての場所にカメラが設置されているわけではない。

 当然、こちらの視界に入らない箇所は無数にある。

 集会所の内部も、そうした場所の一つだ。

 まるで独自の意志を持つかのように消えた触手が、集会所から外に出た対象甲の手に戻っていた。

 さらには一時的に対象乙と行動をともにしていた幼女も気にかかる。

 その瞬間だった。

 とてもこの世の生物が発したとも思えぬ、異界めいた音を龍蛇各地に設置された盗聴器が拾ってきた。

 多重無線車の内部に、その忌むべき音が不気味にこだまする。

 あまりのことに吐き気がした。

 針崎でさえ、不快さを隠そうともしない。

「まずいな」

 不愉快そうに針崎が言った。

「今回はDはこの近海にいなかったが、まさかCSがいるとはな」

 DもCSも、伊藤にはなんのことかさっぱりわからない。

 ただ、Dというのは「蛇権現」と関係している可能性が高い。

 だがCSとなると、まるで見当がつかなかった。

「なにか危険なのでしょうか」

「ああ」

 針崎の顔が、深刻さをおびた。

「CSは最悪、今回の作戦、全体を崩壊させかねない。海自の護衛艦はDへの牽制用だったが、CS相手では意味がないな」

 一体、針崎はなにを言っているのだ。

 一介の公安刑事にすぎない伊藤は、海上自衛隊のことは詳しくは知らない。

 それでも護衛艦が対艦ミサイルや対空ミサイルを装備した立派な兵器であることくらいは知っている。

「まさか、CSというのは護衛艦でも……歯がたたないと」

「まず勝ち目はないな」

 目眩がしてきた。

 海自の護衛艦よりも強力な存在とは、一体なんなのだ。

 幼いころに見た怪獣映画を伊藤はふと思い出した。

 自衛隊は昔、見た映画ではだいたい怪獣にやられていたものだ。

 護衛艦はよく覚えていないが、戦車や戦闘機はあっさり破壊されていたのはよく記憶している。

 当時の伊藤にとって、怪獣は恐ろしいながら魅力的な存在だった。

 その巨大さと獰猛さで、人間のつくった兵器など簡単にやっつけてしまう。

 たいていの男の子がそうであるように、子供の頃は怪獣に夢中だった。

 だが、と思う。

 さきほど聞こえてきたあの怪音を発した存在は、かつて憧れていた怪獣などとは、まったく異なるものだ。

 怪獣の強さは人の原始の心を刺激するようなところがあった。

 誰でも強いもの、強力なものにはある程度の憧れを抱くものだ。

 しかし、あれは違う。

 勝手に全身の産毛が逆だっていく。

 あの「マーメイド」や「ビー」や対象甲の触手のように、あるいはよりさらに恐ろしく、そして冒涜的なものだ。

 体が震えてきた。

 背中に氷柱を突っ込まれたような気分である。

「ただ最悪、CSが上陸するようなことになっても……対象丙がいるから、なんとかなるかもしれない」

 髑髏に肉と皮膚をはりつけたような不気味な顔で、針崎が笑った。

 それこそ悪夢めいた光景だ。

「彼女はなにしろ司祭だしな。いざとなれば……残念ながら本格的な召喚はしかるべき巨石がないので不可能なら、自らを依代とするならば……」

 針崎がなにを言っているのか、まったく理解できなかった。

 むしろわからないことに安心している。

 考えるな、と伊藤は思った。

 今回はの作戦は、たぶん考えたら終わりだ。

 世の中にはなるようにしかならない、ということがあることを伊藤は経験で知っていた。

 どれだけ頑張っても、最後は運にまかせるしかないこともあるのだ。

 考えるな、と改めて自分に言い聞かせた。

 対象甲は何物なのか。CSとはどんな存在なのか。とにかく、考えたらたぶん、自分ていどの頭はパンクする。

 あくまでも一つの駒となり、命令どおりに行動するしかないのだ。

「しかし……こうして画面と音声を見ていても、どうにもやはり龍蛇集落で実際、なにが起きているかはわかりづらいな」

 それは仕方のないところだ。

 秘密裡に設置した監視カメラも盗聴器も、いくら小さな集落とはいえ全域をカバーするのは物理的に不可能である。

「やはり、実際に現地からの報告が欲しいところだが……」

 ちらりと針崎がこちらを見た。

 まさか、と思う。

 そんなことはあってはならないはずだ。

 だが、もっとも伊藤が聞きたくない言葉を、針崎は口にした。

「伊藤くん。悪いが、君は龍蛇集落でいまなにが起きているか、ちょっと様子を見てきてくれないかね」

「私がですか」

 厭だ、とは言えなかった。

「そうだ。君はかなり強靭な精神の持ち主と見た。画像は無理だろうが、ピンマイクをとりつけて、こちらに報告してほしい。それくらいなら出来るだろう? なにしろ君は『北』のスパイともやりあったことのある男なんだからね」

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