9 断崖

 一体、いま何時ぐらいなのだろう。

 御華子はなぜかそんなことを考えた。

 さきほどに比べれだいぶ雨脚が弱ってきたように感じられる。

 強風もだいぶおさまってきていた。

 どうやらこれから朝にかけて、嵐は去りつつあるようだ。

 とはいえ、事態はまったく好転していない。

 御子神と一緒に、人目につかぬように裏路地を選んで歩いてはいるが、一体、どのようにしてこの集落から外に抜け出すか悩んでいるのだ。

「ここには出口は二つしかないんだよね」

 確認するように御子神が言った。

「そうです。集落の東と西の端に、それぞれトンネルがあって……これは明治時代くらいに出来たもので、それまでは外に向かうのにいちいち船にのっていったって聞きました。北は海だし、南側は崖になっています」

「崖か。結構な断崖絶壁とか?」

「そうですね。あそこはさすがに人間じゃ出入りできません」

「なるほど」

 御子神はうなずいた。

「東と西のトンネルは、公安警察と自衛隊に包囲されているはずだ。強引な突破は難しい。それに北側は海で、ひどく荒れているうえに厄介なのが海中に潜んでいる。となれば……選択肢は、一つしかない」

 すると、御子神は黒い壁のようになっている南の山並みのほうに目をやった。

「あそこをよじ登る」

「無理ですっ」

 あわてて御華子は叫んだ。

「とてもじゃないですけど、あそこを登るのは……」

「まともな人間なら不可能だろうね。でも、僕はあいにくと、まともな人間じゃあないんだよ」

 そう言うと、御子神は右のショゴスからなる触手を蠢かせた。

 何度、見ても、やはりおぞましい代物としか言いようがなかった。

 それでも、かつてのような絶対的な嫌悪感とはまた異なる目で、触腕を見ることができる。

 グロテスクな黒いタールの表面で汚らしい油膜がぎらぎらと輝き、ときおり蛍光ピンクのような光を発しながら泡立つように眼球や口の一部が形成されては消えていくその様子は、むろん悪夢じみている。

 しかしその冒涜的な姿のなかに「なにが宿っているか」を、すでに御華子は知っているのだから。

 ショウコ。

 御子神に改めて話を聞かされた。

 彼女は実の妹だったが、儀式的殺人により殺され、その霊体がこの肉塊に憑依したのだという。

 兄を守りたいというショウコの意志が、この暴走しがちな怪物をなんとかなだめているのだ。

 だが「狩人」のときはショウコは相手を兄と認識していないのか、さきほどのような「事故」で勝手に離れたりしてしまったのだ。

 少なくとも、いまの御子神はあの優しい青年だ。

 だからショゴスも、おとなしくしている。

 さすがにその粘っこい表面に触れたりする気は起きないが、ショウコならば決して無差別に相手に襲いかかったりはしないだろう。

「これを使えば……御華子ちゃんを左手で抱えながら、岸壁を登っていくことも可能だと思う」

 それを聞いて、はっとなった。

 人間ならばあの崖は登り降りなどとても考えられない。

 だが、完全な人間とは言えない御子神は、いわばそれを逆手にとったのだった。

 そういえばいまは崩れた蛇権現の社のあった洞窟のなかでも、彼が、より正確にいえば「狩人」が触手を使い、高速で移動していたのを御華子は目撃している。

「でも、この雨でだいぶ地盤も脆くなっているはずですが……」

「もちろん、危険はある。でもこのままじゃ、陸自と人魚たちの戦闘に巻き込まれる可能性が高い。もっとも、本当なら僕……というか『狩人』が、率先して人魚たちを倒す立場だったんだろうけどね。どうも『狩人』の記憶をあさるのは大変だけど、そういうことになっていたみたいだ」

 いまの御子神は右手さえ見なければ、まさに水も滴るいい男、どころか絶世の美男子といってもいい。

 しかしその奥には、あの凶暴きわまりない、世界や宇宙のすべてを憎むような「狩人」が潜んでいるのだ。

 もっとも、自分の人のことは言えない。

 同じように、この血は忌まわしい人魚の血をひいている。

 いつ自分のなかの血が己を裏切るかは、まだわかっていないのだ。

 それでも、とにかく今は生き残るための努力をすべきだろう。

 二人は慎重な足取りで、集落の南部へと向かっていった。

 銃撃音は北のほうから聞こえてくる。

 漁港や集会所など、集落の重要な部分は北に集中しているため、戦闘もそのあたりが最も盛んなのだ。

 戦況がどうなっているかはわからないが、双方、ともに数を減らしていることは間違いなかった。

 たぶん、単純な戦闘能力という意味では、圧倒的に自衛隊の特殊部隊のほうが上だと思う。

 御華子は軍事的な知識などまったくわからないが、それでも特殊部隊の奇妙な鎧のようなものを、人魚たちの鉤爪ていどでどうにか出来るとは思わない。

 確かに姿形はおぞましいが、現代の武器で完全武装した兵士たちにはとても正面から戦ってもかなわないだろう。

 だが、ある意味では人魚は、その外見そのものが武器ともいえる。

 あの呪われた姿を見て平静を保てる人間は、そうはいないのだ。

 御華子も初めて自室であの怪物を見た時は嘔吐して失神した。

 確かに自衛隊の特殊部隊はエリートなのだろうが、それでもやはり人間であることには違いない。

 普通の人間より遥かに過酷な環境にも対応できるだろうが、彼らも「怪物と実際に戦う」のはおそらく初経験のはずだ。

 実際、御華子たちが出会った自衛官はなかば錯乱していた。

 ひょっとすると、正気を失った自衛官のなかには見るもの全部を怪物と勘違いし、仲間まで撃っているものもいるかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、集落の南の端の断崖にたどり着いた。

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