4 インスマウス

「え……」

 御華子が呆然としたように言った。

「そんな! 宇宙とか難しいけど、いろいろわかっているんでしょう?」

「ところが、残念ながら違うんだ。むしろ研究が進むにつれて、『ますます宇宙のことがわからなくなってきた』っていうのが、正直なところだよ」

 省吾は説明を始めた。

「いままでは、宇宙には四つの力が存在して、あらゆる物理現象はそれで説明できると考えられてきた。強い力、弱い力、電磁気力、そして重力。この四つだ。電磁気力と重力はわかるだろうけど、残る二つについて一応、補足しておく。強い力は原子核の陽子と中性子を結びつける力、弱い力は中性子が崩壊してニュートリノになるのに関わってる力だ」

 あまり専門的な説明をしてもかえってわかりづらくなるのでこの程度にしておいた。さすがにゲージ粒子やクォーク、量子色力学あたりまで話がいくと、高校生には難しいだろうと思ったのだ。

「でも、最近、おかしなことがわかったんだ。たとえば僕たちの地球や太陽が属しているこの銀河系は、銀河としての形を保つにはあまりにも質量が軽すぎる。そこで科学者たちは、新たな力や物質が存在することに気づいた。それは、ダークマター、ダークエネルギーなどと呼ばれている。暗黒物質、暗黒エネルギーということもある。この二つは同じものなんだ。質量とエネルギーは等価だからね」

「そうなんですか?」

 驚いたように御華子が言った。

「そうだよ。たとえば、原爆というのは、物質のもつこの性質を利用したものだ。ほんのわずかな量の物質をエネルギーに変えるだけで、とんでもない破壊力を引き出すことができる……」

 これには瑞江や権一郎も驚いていた。

「さっきのダークマターに戻るけど、この正体がなんなのか、いままでの理論ではまったく説明がつかないんだ。ただ一つわかっているのは、重力とだけは相互作用するということ。だからこの銀河系も、こんなに軽いのに暗黒物質のおかげでいまの形を保っていられる。他にも最新の宇宙物理学はもう複雑な仮説の見本市みたいなものだよ。ブレーン理論やM理論みたいな大胆な仮説もあるし、さらに真空の力というのが存在するという説もある。つまりこと宇宙に関してはわけがわからない、というのが正確なところなんだよ」

 御華子は衝撃をうけたようだ。

「生物学はさほど詳しいわけではないけど、宇宙物理学ほどまではいかないが何度かパラダイム・シフトが起きている。たとえばセントラル・ドグマが破られたりね。細かい説明は省くけど、科学の世界ではいままで絶対的な定説だと思われていたものが、いきなりひっくり返るというのはたまにあるんだ。そもそも君の見た半魚人が実在するとすれば、まずそれだけで生物学会は大騒ぎになるだろう。しかもそれは知性を持つ可能性もある。彼らの生殖方法がいままで知られている生物とまったく違う、ということもありえなくはない。それに、ここは若狭とすぐそばとは言わなくても、比較的、近いよね」

 若狭と聞いて、御華子がつぶやいた。

「人魚っていえば、若狭の伝承が有名ですよね……あと、人魚の肉を食べて不老不死になった八百比丘尼の話も」

「不老不死、ね」

 風宮が嘲笑うように言った。

「くだらない。あんな忌まわしい化物の肉を食べるなんで、おぞましすぎる」

 それを聞いて、省吾は体をこわばらせた。

 あるいはと思っていたが、彼女は「人魚」の存在を知っていたのだ。

「風宮さんは、ご存知なんですか?」

「さあ、どうかしら」

 また冷笑はその整った顔にはりついた。

「もともと私、本当は魚って嫌いだけどね。狩人。あんたがこなければ、絶対に私もこんな場所にはこなかったわよ。あちこち魚くさいし、『インスマウス面』の奴らがごろごろしてる集落なんて」

 いまの外国風の固有名詞には聞き覚えがある。

 自分のうちなる声、風宮に言わせれば「狩人」という名の人格がたしかにインスマウスと言っていたのだ。

「インスマウス……なんなんですか、それ」

「フィクションに出てくる架空の街よ。昔、あまりにも『宇宙の真実』に近づきすぎた愚かなホラー作家が、フィクション仕立てで書いた小説。そのインスマウスと、ここは本当に瓜二つよ。まあ、インスマウスにも実はモデルがあったって話だし、もともと海洋国の日本にこういう場所があっても不思議ではないけど」

 宇宙の真実、というのはいささか大げさな言葉のように思える。

 だが、風宮は決して誇大妄想にとらわれているとは思えなかった。

「ま、あなたは知らないほうがいいでしょう。『狩人』はよく知っているはずだけど」

 今更気づいたが「狩人」というのもおかしな名前だ。

 名前通りの存在だとしたら、そしてもし別人格が実在するとしたら、「狩人」というのは当然「なにかを狩っている」ことになる。

「狩人……僕の別人格があったとして、一体、なにを狩っているんでしょうね」

「さあ」

 途端に風宮が不機嫌になった。あるいは彼女は自分の過去を思い出したのかもしれない。

 おかしい。

 風宮はすでに己がなにかとんでもない知識を有していることをほのめかしている。

 そして彼女は、この自分を、御子神省吾を憎んでいるのだ。おそらく気づかないうちに、彼女に尾行されていたのだろう。

 風宮は自分のあとを追って、この龍蛇の集落にたどり着いたのだ。

 そういえば風宮は、今にしてみると御華子や瑞江、央一に対しても極端に無愛想だった。

 あれは、内心の嫌悪感、あるいは憎しみのようなものを隠していたのではないだろうか。

 だが、なぜ彼女は「人魚」の血が入ったものをそこまで目の敵にするのか。

「風宮さん……でも、あなたも大した度胸ですよね。ここは、あなたにとっては敵地もいいところじゃないですか。そこにわざわざ入り込むなんて」

 その瞬間、いままでになく風宮が動揺するのがわかった。

 まったくのブラフだったが、つまり自分の推測はあたっていたわけだ。

 風宮は人魚やインスマウス、さらに宇宙の真実とやらを知っていた。

 そして彼らを憎み「狩人」と呼ばれる自分の別人格らしきものも憎悪している。

 だとすれば、と思ったのだ。

 あるいは彼女は「人魚」とはまた別の、彼らに敵対する異種族のような勢力の一員ではないのか。

 そしてそうした「多くの人間に知られていない存在」が「狩人」の獲物であり、かつて風宮の縁者などを「狩った」としたら、すべての辻褄はあうのである。

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