3 科学の限界

 省吾は呆然とした。

 さっきから、この風宮という女性の言っていることはまるでわけがわからない。

 頭が少しおかしいのでは、と本気で疑ったほどだ。

 だが、それもなにか違う気がする。

 少なくともその憎しみに塗り込められた瞳の奥には、高い知性が感じ取れたのだ。

「あなたは……ひょっとしたら、僕の知らない、というか覚えていない秘密を知ってるんですか?」

 すると、風宮が初めて笑った。

 とはいえ、それは決して好意的なものではない。

 むしろこちらを嘲るような、ひどく冷酷で残忍な笑みだった。

「さあ……もしかしたら、そうかもね。そう、やっぱり覚えてないの。あれだけひどいことをしておいて忘れるなんて、ずいぶんと都合がいいことね。でも私は、忘れていないから。あなたが私たちになにをしたか……忘れられるはずがない……」

 心臓がどきどきしてきた。

 風宮は決して冗談やいたずらでこんなことを言っているわけではないと、本能的に悟ってしまったのだ。

 自分はおそらく、実際にこれほど憎まれても仕方ないことをしたのだ。

 それは、さきほど聞こえた声と無関係だとは思えない。

「あなた……ひょっとすると、俗に言う多重人格なのかもね」

 どきりとした。

「『狩人』って名前の人格が、あなたのなかにいるのかも。そいつはどうしようもなく冷酷で、ひどくむごたらしいことを平然と行える。いまのあなたは虫も殺さぬような顔をしているけど……おそらく、あなたに本格的な命の危機でも迫れば勝手に出現するのでしょう。でもあなたも、彼の生み出したものなのだから、同罪よ」

「彼の……生み出したもの?」

「そう」

 風宮はうなずいた。

「狩人は、普段あのままでいたらとんでもないことになる。だからこそ、あなたという偽の人格が創りだされたの。そうなればすべてが納得がいく。『あの世界』の狂気には普通の人間は耐えられない。それで、平常時はあなたという創りだされた人格が、無害なふりをしている。あなたは冒涜的な知識も、自分の真の恐ろしさも知らない……」

 全身から厭な汗が噴き出してきた。

 最悪だ。

 ひょっとしたらと思っていたが、事態は想像以上に深刻である。

 自分のなかの別人格は、どうやらとんでもない奴らしい。

 改めてぞっとした。

 シャツについていた謎の返り血らしきものを、思い出さずにはいられない。

 昨夜、自分はなにかをしたのだ。

 正確には「狩人」とかいう別人格だが。

 まさか、と思う。

 いくらなんでもありえないと思いたいが、央一を殺したのが実は自分だとしたら?

 そこで鋭い視線に気づいた。

 風宮だけではなく、いつのまにか御華子までもが猜疑の目でこちらを凝視していたのだ。

「お父さんにあんなことしたの……御子神さん、じゃないでしょうね」

「ありうるわねえ」

 風宮が高らかに笑った。

「こいつは本当にひどい奴なの。人を一人、殺すなんて平気でやってのける」

 肌が粟立った。

 自分が凶悪な殺人鬼などとは、絶対に考えたくない。

 ふと、おかしなことに気づいた。

「いや……僕じゃないよ。僕は、央一さんをあやめたりはしていない」

「記憶がないんでしょう? なぜ断言できるのかしら」

 風宮が嬲るように言った。

「傷跡だよ」

 ほんのすこし、さきほどより冷静になった気がする。

「央一さんの遺体には、五本、平行するようにして鋭い切り傷がついていた。あれはたぶん、五本の指を持つ何物かが央一さんを殺害したんだ」

 すると風宮が舌打ちした。

 同時に、御華子の顔色が変わる。

「じゃあ、お父さんはあの半魚人に……」

 賢い子だ、と思った。

 だが聡明さが今回は仇になった。

「そうなんだ……それじゃ……あの半魚人……夢なんかじゃなくて……本当に……本当に……」

 御華子の体が震え始めた。

 いまの彼女はかなり精神的な安定になっているのでできれば言いたくなかった。

 しかし、いまは緊急事態である。

「落ち着いて聞いてくれ、御華子ちゃん」

 体をかがめると、御華子と目の位置をあわせた。

「君が見た半魚人というのは、残念ながら実在する可能性が高い。君を不安にさせたくなかったのでさっきは嘘をついていたけど、窓の外には妙な足跡が残っていたんだ。その足跡は、裸足の人間に似ていたけど……明らかに水かきらしいものがついていた」

「嘘……」

 御華子の顔が恐怖に歪んだ。

「嘘……じゃないよ……」

 ふらふらと、一人の中年女性がこちらに近づいてきた。

 央一の妻であり、御華子の母親である瑞江だ。

「この龍蛇には昔から、言い伝えがある……私たちは、ただの人間ではなく、海から来た『人魚』の子だって……人魚は偉大なる海神の使いとされている……そして私や御華子にも、その地は流れている」

「嘘っ」

 御華子が狂おしく頭を振った。

「そんな……お母さんまで馬鹿言わないでよっ……私にはあんな怪物の血が……」

 奇妙に歪んだ顔で御華子が言った。

「ありえない……そう、生物の時間に私、ちゃんと習ったもの! 人間は、他の種族との混血なんてつくれない! 生物種っていうのはそれぞれ特有の遺伝子を持っていて、よほど近い種でもない限りかけあわせなんて不可能だって! おまけにそうして生まれた動物は、たいていは子供なんてつくれない。そうでしょう?」

 御華子の言っていることは、科学的にはまったく正しい。

 だが、すでに彼女が見た半魚人が実在しているということで、いままでの省吾の世界観は変化を始めつつある。もともと宇宙物理学を研究しているというのも、あるいは大きく影響しているかもしれない。

「あのね……昨日、言ったけど、僕は大学院で宇宙物理学を学び、研究している。実はいまの科学で説明できるのは、この世界のごくごく一部のことでしかないんだよ」

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