2 狩人
「おっと……逃げようとしても無駄だぞ」
権蔵が舌なめずりをした。
「もう何人もの村の男が、お前の家のまわりにいるはずだ。ああ、心配するな。手荒な真似はしない。なにしろ、お前は大事な大事なミケなんだからな」
腰の力が抜けていく。
「こ、こんなことが現代日本で許されるはずがない……」
「ところが、許されているんだよなあ」
権蔵の笑顔が不気味だった。
「警察だって、ここには手出しできねえ。連中もわかっているんだよ。ここが普通の、自分たちの常識が通じない場所だってことに。何度も言っただろう。ここは聖地なんだよ。蛇権現様に寿がれた場所なんだ。俺たちの血は、そこらの人間のものとは違う。俺たちは高貴な海神の血をひいているんだ」
高貴どころか化物ではないのか、という言葉をあやうく御華子は口の中に呑み込んだ。
いままで閉鎖的で排他的な厭な土地に生まれた、とは思っていた。
だが、いくらなんでもまさかここまでとは思わなかったのだ。
蛇権現様に祟られたという父の死体には、明らかな傷があった。
本当は何者かに殺されたのだ。
父は神主さんのもとに行き、おそらくはそこで……。
「いや……」
泣きたいのに、泣けない。
あまりにも巨大な恐怖に、吐き気がする。
かたかたとカスタネットのような音が聞こえてきた。
一体、何事かと思ったが、やがて自分が歯を鳴らしているのだと気づいた。
人間というものは、心底、恐ろしいと思うと本当に歯が勝手になるものらしい。
それをどこかでひどく客観的に見つめている自分がいた。
また夢のなかのような、離人症めいた感覚にとらわれる。
こんな現実に、精神が耐えられないのだ。
権蔵の後ろには、下卑た顔をした男たちが何人もいた。
特に人魚顔をした者が多い。
「いろいろ今夜か……」
「しかしこの体でもう大丈夫なのかね」
やはり人魚顔の老婆が混じっていた。
「大丈夫だろう。神主さんがおっしゃっていたらしい。『人魚様』のお許しが出たと」
「何年ぶりになるねえ」
「いずれにしろ、めでたい夜になりそうだ」
「あの色男も贄になるかね、ひっひっひっ」
横溢する狂気に目眩がしてきた。
「やめろ……やめてくれ……」
権一郎が体を震わせていた。
「頼むから……俺ならなんでもするから……」
「もう、遅いんだよ」
「御華子に選ばれたときから、この娘はこうなることは決まっていたんだ」
「央一もわかっていたはずなのに……馬鹿な真似を」
「そういや、権一郎はよそ者に託して御華子を逃がそうとしていたぞ」
「それはとんでもないな」
「神主さんに、権一郎の処分も決めてもらわんとなあ」
どんどん話がおかしな方向に向かっている。
「ほれ、お前ら……権一郎もだ。三人とも、民宿にもどれ」
「もう、見張りはいるんだよな」
「絶対に逃がすんじゃないよ。まあ、逃げられはしないと思うけどね」
「トンネルにも見張りはたててる。ここから出るにはどうしても東西のトンネルのうちどっちかをを使わなきゃいけないんだ。心配することはない」
それは事実だった。
南はすぐに山地になっており、急峻な断崖でこの道を進むのは人間にはまず不可能だ。
そのため、トンネルが開通するまでは船を使ってしか外の世界と交流できなかったという。
古い因習や文化が保持されてきたのは、この地勢も関係しているのだろう。
迂闊に抵抗しても、駄目かもしれない。
「そら……みんな、民宿に戻りな」
集落の人間に囲まれるようにして、御華子たちは民宿へと移動した。
むしろ移動させられた、というべきだろう。
すでにまわりには屈強な若い男たちが何人もいる。
「ま、夜になるまでまだ時間がある。それまで、蛇権現様に捧げられる幸運を噛みしめておくんだな」
「うらやましいねえ」
一人の老婆の言葉に、御華子は戦慄した。
なぜなら老婆は「心の底からこちらを羨んでいる」としか思えなかった。
「わたしも御華子に選ばれたかったよ……」
もういやだ、と思った。
なにもかもがこの集落は狂っている。
外の世界と、正気と狂気が逆転してしまっているのだ。
なかば強制的に自宅の玄関に入らさせると、奇妙な顔をした母がいた。
その顔は細かく痙攣している。
「あ……あうっ……あっ……」
明らかに普通ではない。
「お母さん?」
さきほどまでこちらを囲んでいた連中は、くすくすと笑うと去っていった。
だが、まだ見張りはいるだろう。
つまり自宅に、御華子たちは一種の軟禁状態になったのである。
「おそらくは、精神的なものでしょう。心因性のチックと、失語症を発症したようね」
ひどく冷静な声が聞こえてきた。
黒衣に身を包んだ、風宮とかいう女だ。
彼女の存在を、いままで御華子は忘れていた。正直、あまりにもとんでもないことが続いて、それどころではなかったのだ。
「まさか今夜、蛇権現がやってくるとは……さてはて、これは偶然かしら」
風宮はそう言うと、御子神を睨みつけた。
「あなたがなにか、仕掛けたの?」
「え?」
御子神が驚いたように言った。
「だから、僕は本当になにも知らないんだ」
「なるほど……観察していたけど、それ、嘘ではないかも。確かに『あなた』は知らないのかもね。つまり、そうやって精神にかかる負荷を回避しているのかもしれない。興味深いやり方だわ」
一体、彼女はなんの話をしているのだろう。
「でもね……それでも、事実は変わらない。いまのあなたは知らないかもしれないけど、やっぱりあなたは『狩人』なのよ」
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