第二章 大いなる神々
1 ニエ
昨晩からひどい夢ばかり見る。
半魚人の次は、父が蛇権現様に祟られて死ぬという悪夢の連続だ。
あくまで、今の御華子にとってはこれは夢なのだった。
世界と自分の間に分厚い壁が存在しているような気がする。
「夢だもんね……」
ぶつぶつとつぶやきながら、海に浮かぶ父の死体から御華子は離れて歩き出した。
「おいおい、あいつ、大丈夫か?」
「ちょっとばかり、頭がやられたかもしれねえな」
「なに……遅いか早いの違いだ。別に構わんだろう」
周囲の男たちの言葉の意味がわからない。
どうせ悪夢のなかなのだから、どうでもいいことだった。
どうすれば目が醒めてくれるのだろう。
本能的に、自分の家にむかって歩き始めた。
ひどく足取りが頼りない。いまでも、まぶたの裏側に父の無残な姿が焼きついている。
「本当に厭な夢……」
調子の狂った笑い声を御華子は漏らした。
「おい……御華子」
いきなり聞き覚えのある声が聞こえてきた。
見ると、権一郎がいる。
傍らには、御子神の姿もあった。
「ねえ、権一兄ちゃん。この夢から醒めたいんだけど、どうすればいいのかな」
権一郎が顔を引きつらせた。
「落ち着け。御華子……気持ちはわかる。でも、これは夢じゃない。残念だが、現実なんだ。そしてお前は、たぶんこれから大変な目にあう。下手をすると、今夜あたりに蛇権現様のもとにお前は召されるかもしれない」
召される。
つまりは呼ばれるということだろうか。
神様の妻になる、のかもしれなかった。
もちろん実感などわかない。これは夢なのだから当たり前だが。
「そういう夢なんだ……でも、これって絶対に悪夢だから、なんだか……」
次の瞬間、頬に衝撃が来た。
強烈な痛みが顔に走る。ぱん、という甲高い音が鳴った。
平手打ちをくらったのだ。
いままで、権一郎にこんなことをされたことは一度もない。
「なあ、しっかりしろ……御華子。これは現実だ。そしてお前は、ここにいると大変なことになる。逃げろ。今すぐ。まだ午前のバスには間に合うはずだ。通学に使っている自転車はやめたほうがいい。お前のことは、こちらの御子神さんに頼んである。それと、瑞江さんと一緒に逃げるんだ」
痛みのせいか、しだいしだいに現実感が戻ってきた。
一気に磯の香りが蘇ってくる。
遥か遠くから、雷鳴らしい轟きが聞こえてきた。
この時期の日本海は、荒れることが多い。
「逃げるって……」
「僕は、権一郎さんに頼まれました。事情はよくわかりませんが、なにかここでおかしなことが起きていることくらいはわかります」
御子神が言ったが、今はその現実離れした美貌がかえって不吉だった。
やはりすべての災いはこの美青年が運んできたような気がする。
「いやだ。権一兄ちゃん。この人、よそ者だよ。それに私に嘘、ついたの。こんな人、信じられない」
「なんてこと言うんだ」
権一郎が怒鳴った。
「普通、こんな状況じゃ一人で逃げ出すものだ。それなのに、御子神は相当に悩んだ挙句、俺の頼みを聞いてくれたんだぞ」
「でも……なんでいきなり私たちが逃げなくちゃいけないの。意味、わかんないよ」
権一郎が顔をしかめた。
「いまは事情は説明できない。している時間もないし、言ってもたぶん、お前は信じない。でも、俺が危険だと言っているんだ。そんに俺の言うことが信じられないか?」
いつも権一郎はこちらのことを気遣ってくれた。
家族以外で信用できる集落の人間は、他には誰もいない。
長い沈黙の後、御華子はうなずいた。
「わかった……」
「じゃあ、善は急げだ。すぐに家に戻って、瑞江さんと……」
その瞬間、権一郎の顔が恐怖にこわばった。
「おいおい、権一郎……お前さ、なにとんでもないこと、言ってるんだよ」
ぞっとして振り返ると、権蔵がいた。
「ふざけてるのか。御華子を逃がすって、どういうつもりだ。お前、頭いかれたか?」
すると、権一郎が座った目で言った。
「いかれているのはどっちだろうな。くそっ……もう、俺には我慢できないっ! いくらなんでも、この集落はひどすぎるっ!」
「龍蛇の悪口を言うつもりか、新参が」
権蔵のぎょろりとした目に、冷たい怒りが宿った。
「まあ、いいさ。どのみち、今日はバスなんてこねえよ」
権一郎の顔色が変った。
「そんな……」
「バス会社の奴らだって、ここがどんなとこかは、多少は察している。予定より少し早いが、神主さんも了解していることだ。今夜、蛇権現様がいらっしゃることになった」
肌がざわりと粟立った。
やはり蛇権現様というのが、神というただの抽象概念ではない、実体を伴った「なにか」に感じられたのだ。
「どういうことです? いらっしゃるというのは」
「だから、いらっしゃるんだよ、蛇権現様がよ。お前、日本語、わからないのか?」
権蔵が笑った。
「しかし兄ちゃん、男なのに女みたいな顔しているな。こういう変わり種も、蛇権現様はお喜びになるかもしれない」
とにかく、今夜なにか起こることだけは間違いなさそうだ。
「まあすべては神主さんの判断しだいだが……兄ちゃんも、蛇権現様の贄にいいかもしれないぞ」
ニエ、という言葉の意味がしばらく脳裏で意味をなさなかった。
「まさか……」
御子神の顔が蒼白になる。
「やはり、御華子という名前は……でも、そんな、いまの日本でこんなことが……」
「ほう、多少は学があるのか」
権蔵が楽しげに言った。
「そうだよ。御華子は神の妻になると同時に、贄でもある。御饌と書いて、ミケ。それが御華子の務めだ」
御饌の意味はむろん御華子も知っている。
神への供物だ。
では、自分は「文字通り、神に捧げられる」というのか。
だがそれは、一体、どんな神なのだ?
体が勝手に震えていく。
なにかとてつもなく恐ろしいことが、これから起きようとしている。
いままであまり深く、蛇権現の正体について考えたことはなかった。
ただの田舎の民間信仰だと思っていた。
しかしやはり、この龍蛇の集落はおかしなことが多すぎるのだ。
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