12 過去

 ショウコとは誰だ?

 思い出すな。

 だが、凄まじい頭痛とともに、脳内を荒々しく映像が流れていく。

 自分より何歳か年下の可愛らしい妹。

 しかし彼女はナイフによって、無残に……。

「やめろ……」

 また頭痛がひどくなっていく。

 どこかの洞窟のなかで、仰向けにされた自分の右腕が切断され、そのかわりになにかひどく忌まわしいものが……。

 しょごす。

 何人もの男たちが、確かにそんな名前の入った、いかがわしい呪文を唱えていた。

 ショウコの名を叫んだのは覚えている。


 大丈夫、これからショウコくんはこのショゴスに宿り、君のことを守ってくれる……。


 それからさまざまな外国語を覚えさせられた。

 英語。ドイツ語。ラテン語。フランス語。

 すべて、特殊な知識を得るために必要なものだという。

 そして奇怪な書物を読まされた。

 グラーキの黙示録。

 食屍教教典。

 不完全版の無名祭祀書。

 妖蛆の秘密。

 エイボンの書。

 邪悪な豊穣の神格について記されたきわめて貴重な図版入りのウ・ス異本。

 そして、やはり不完全な断片ではあるが、ラテン語版のネクロノミコン。

 おぞましい知識のつまった魔道書ばかりである。

 さらにそれから、魔道士としての修行をさせられた。

 一人というわけではなく、初めは何人もの仲間がいたが、次々に脱落していった。

 自ら召喚した異界の怪物に食われたもの。

 突如、狂乱して自らの眼球をえぐりだしたもの。

 危険なレンズを通して「見てはならぬもの」を見てしまい、汚らわしい青黒い膿を垂らす奇怪ななにものかに命を奪われたもの。

 ある日、気がつくと意味不明の言葉をつぶやく廃人となった者もいた。

 凄惨、の一語に尽きる日々のなか、自らの心のなかも真っ黒な絶望と怒りで塗り込められていった。

 いつかこの書物に書かれているような奴らを、すべて滅ぼしてやる。

 むろん、理屈ではそんなことは不可能だとわかっていた。

 「彼ら」は人類が抗するにはあまりに強力な、宇宙の力の本質そのもののようなものだったのだから。

 それでも、この憎しみは本物だった。


 そうだ。それでいい。憎め。奴らを、そして奴らを信仰する者どもを。


 憎んだ。

 憎悪した。

 嫌悪し、滅亡させると誓った。

 そしてついに、ある日、もともと繊細だった心が限界を超えて、人格が解離した。

 一人は本来の人格である、憎悪だけで生きているような存在である「狩人」。

 そしてもう一人は、この忌まわしい現実から精神を守るために誕生した「御子神省吾」だ。

 ようやく、断片的な記憶ではあるが、過去の真実を思い出した。

 だが、まだ大量の疑問は残っている。

 そもそも、自分をこのような怪物めいたものに仕立てたものは何物なのか。


 毒をもって毒を制す。君は人類のために、その毒となるのだよ。


 ふいに、まるで髑髏に肉片をはりつけ、そこに多少の髪の毛を生やしたような、あまりにもおぞましい男の顔が目の前に蘇った。

 奴だ。

 名前はわからないが、奴もこの自分を創造した責任者の一人だ……。

「ふん、そっちの御子神というのは、ずいぶんと気分が悪いようだな」

 神主さんの声を聞いて、我に返った。

「だが……さきほどと、目つきが違う。元の人格に戻った、というわけでもなさそうだが……」

「それよりも、神主さん。この女の拷問の支度を」

「おお、そうだった」

 見ると、手首を頑丈そうな手錠で縛められた風宮の黒い喪服のような衣服が、人魚顔の男たちの手によって脱がされていた。

「こやつを徹底的に辱め、苦しめよ。相手は昴神の司祭……遠慮はいらん」

 さすがの風宮の顔にも、いまは能面のようというわけにもいかず、怒りの形相が浮いていた。

「なにをしようが無駄だ」

 風宮が言った。

「私は昴神の寵愛をうけたもの。貴様ら程度の拷問など……」

「さて、それはどうかな」

 神主さんの声が冷酷そうに低められた。

「昴神がどうかは知らぬが、我ら一族は殊の外、相手を傷めつけるのが好きでなあ。むろん、簡単には殺さんよ。それに、お前が自ら命を断ったりしないことも知っておる。それはつまり、拷問の苦痛に屈した、ということを意味するのだからな」

「へへ……昴神の司祭にしておくにはもったいない上玉だ」

「けっ、助平男どもが。こいつは私の亭主を殺したんだよ。ただの拷問じゃあ、すまさないからね」

 手足を縛られたいまの省吾には、出来ることはなにもなかった。

 なすすべもなく、風宮が拷問されるところを見守るしか出来ないのだ。

 風宮はもともと、ひどくこちらを憎悪している。

 どうやら彼女の集落を自分が滅ぼしたのだから当然のことだ。

 そうした意味では、風宮が拷問を受けてやがて殺されるのは都合がいいはずなのだが、彼女がこの集落の蛇権現信者を憎んでいるのもまた事実だ。

 だから自分を先にしとめるよりも、むしろこの集落のものを皆殺しにしようとしたのである。

 もっとも、彼女もまたある種の狂気に呑まれている。

 必ずしも理性的な行動をするとは限らない。

 やがて一糸まとわぬ姿にさせられた風宮の体を見て、何人もの人魚顔たちが顔を驚きに歪めた。

 その体のいたるところに、鞭や焼きごてなどを使ったような、拷問の痕跡があったのだ。

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