第五章 穢れたラグナロク
1 落とし子と黄衣の王
なんという醜怪さだろう、と御華子は思った。
それはあまりにも人間にとって衝撃的すぎる、この世ならざる光景としか言いようがなかった。
やはり昴神、否、ハスターは穢れた神格なのだろう。
冒涜的な力が光速を超えて遥かヒヤデス星団から風宮だったもののなかに流入してくるのがわかる。
鳥肌が立ちっぱなしだ。
いま自分の目の前に顕現しつつあるものこそ、邪悪なる神ハスターなのだ。
とはいえ、それはハスター全体の力からすれば、ごくごく一部にすぎない。
かの神格の強大さを、決して御華子は侮っていなかった。
地球上には存在しない重金属でできた重々しい鎖のような鱗をまとい、何十本もの触手を形成していく。
さらに質量が増大していた。
どんどんそのおぞましい肉体が巨大化していくのだ。
最終的に、それは数十メートルほどもある怪物じみた姿へと変貌を遂げていた。
さらに、あの剥がれた顔の皮がまるで衣服のように、黒ずんだような色合いの本体にかぶさっていく。
無数の鎖で出来た縄を束ねたものがよろよろと蠢きながら、黄衣をまとったように見えなくもない。
もしいままでの御華子だったら、魂が砕けるほどの衝撃に正気を失っていただろう。
だが、いまの御華子は眼前に現れた忌まわしいものを直視しても、耐えることが出来た。
なぜ自分が御華子に選ばれたかもすでに理解している。
並外れて生来の霊力が強いのだ。
神の眷属の子を宿せるほどに。
すでに自分の「夫」が何物か、御華子は認識していた。
それは、あの人魚たちなどではない。
あのような卑小な存在は自分にはふさわしくないのだ。
また、蛇権現がなぜいま、この近海にいないかも理由は明白だ。
かの九頭龍権現の落とし子たる存在を、はばかったのだろう。
次の瞬間、かつて風宮だったもの……いまでは極めて不完全でありながらも、昴神、ハスター神の顕現したものが、唸るような咆吼を発した。
凄まじい風圧となって襲い掛かってくる。
激しく断崖が鳴動したが、自身の安全を御華子は疑っていなかった。
なぜなら、自分には守護者がいるからだ。
それは、御子神や「狩人」といったものではない。
より大いなる存在が、自分を、妻を守ってくれる。
その瞬間、「夫」の存在を御華子は強烈に意識した。
海中から、よろめくようにしてその巨体が姿を現す。
なぜこれほど素晴らしい存在を、いままで恐れていたのだろう。
結局、人間的な常識から逃れられなかったということかもしれない。
人間などごくごく矮小で、とるにたらない生物だ。
いずれ星辰が正しい位置に戻れば、ルルイエは海底から浮上し、九頭龍権現、大いなるクトゥルフがその眷属たちとともに人類を踏み潰していくだろう。
彼らからすれば、人間など塵芥に等しい。
そして自分はただの人間ではない。
そのときに大祭司クトゥルフの傍らに侍る眷属を産み落とすという栄光に浴することが許されたのだ。
むろん、眷属の子を孕めば、出産時に人としての体は死ぬ。
だが、それがどうした?
そんなことは、極めて些細なことに過ぎない。
さきほど、御子神に恋していた「人間の自分」など、ただの世間知らずの小娘が浮かれていたに過ぎない。
「偉大なる神の眷属よ……我が夫よ!」
御子神を振り払うようにして御華子は叫んだ。
「私を、迎えに来て!」
次の刹那、凄まじい爆音があたりに轟き渡った。
文字通り、目にもとまらぬ素早さで黒と緑の触手がこちらに接近してくる。
その速度が音速を超えていたため、ソニックブームと言われる現象が起きたのだ。
音速の壁を超えると、凄まじい衝撃波があたりに広がるのである。
龍蛇集落の古い家々の屋根が吹き飛び、何十人もの住民が衝撃のあまり空に跳ね飛ばされたがそんなことは御華子にとってはどうでもよかった。
人の命になど価値はないのだから。
高度な知性により衝撃波の発生を完全に計算していた「夫」の触腕は、途中で幾つもに枝分かれし、さらに皮膜のようなものをつくって暴力的な突風から御華子を護った。
「やめろ……御華子ちゃん……」
御子神が顔面を蒼白にしている。
ひどい頭痛に耐えているようだった。
あるいは、「狩人」が本格的に覚醒を始めているのかもしれない。
だが、御華子の夫にとっては「狩人」など他愛もない存在である。
それより用心すべきは、かつて風宮だったハスターの化身のほうだ。
きわめて不完全とはいえ、相手は神の力を有しているのだから。
「さよなら、御子神さん」
そういえば人間でいたまま死にたい、と愚かなことをかつては考えていた。
かつての自分はなにもわかっていなかったのだ。
急激に、緑色をした柔らかなものに全身をくるまれた。
御子神がなにか叫んだようだが、耳が塞がれているので聞き取れない。
落とし子が、妻を迎えようとしているのだ。
顔まで覆われているのに、不思議と息苦しいとは感じなかった。
「夫」は当然、人間の生理も知っているからなんらかの手段で酸素を送り込んでくれているのだろう。
そのまま、体がかなりの高速で水平に移動するのがわかった。
落とし子の触腕から、本体にむかっているのだ。
やがて御華子の体は、落とし子のなかに吸収された。
とはいえ、いまどのような状態になっているかは興味がある。
そう考えた刹那、すぐに「夫」は応えてくれた。
目の前にまるで窓でも出来たかのようだ。
遠くに、あの忌々しいハスターの化身の姿が見える。
汚らしい黄色いの衣を、鉄色の触腕をもった怪物が着ているかのようだ。
そういえば「黄衣の王」などという称号をかの神が持っていたことを、なぜか御華子は知っていた。
さらに別の視点から、御華子は自らの夫の姿を見ることが出来た。
どういう理屈かはわからないが、宇宙的な力を持つ神の眷属の姿に、御華子は改めて慄然とさせられた。
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