12 星からきたるもの

 フォン・ユンツの手になる「無名祭祀書」の一節である。


 ……ある種の魔道士は己が信仰せし神の聖印を額に刻み、霊的に神と己を結びつけたり。かくの如き技をもちて多量の霊力を神より賜りたる者、己がすべてを神に捧げたる故、神は自在にそのものの魂と肉体を道具の如く使役しうるものなり……


 つまり額に神の印を刻むことでとてつもない霊力を得るが、いざとなればその神は代償として魔道士の魂と肉体を自由に使うことができる、ということである。

 ただ「狩人」が読んださまざまな魔道書にも、具体的にどのようにこの呪法を執り行うのかは記されていなかったようだ。

 その知識は頭のどこにもない。

(ああ、そうだな)

 ぞっとした。

 「心のなか」から聞こえてきたその声の主は、派手に嘲笑していた。

(なんだお前、高校生の小娘を守るヒーロー気取りか? おいおい、俺はロリコンのケはないんだぜ? ヒーロー気取りはな、力があるものがやって初めて意味があるものだ)

(そんなんじゃない!)

 省吾は心のなかで絶叫した。

(そもそもこれはお前がまいた種だろう! なら、お前にも責任があるはずだ!)

(ならば、その体を俺に明け渡せ。俺があのババアを今度こそ仕留めてやる……あの女、見た目はともかく実際には少なくとも数百年は生きている化物だぞ)

 「狩人」は嘘を言っているようではなかった。

(世界でもあのレベルの魔道士となると数十人もいないだろう。俺の相手にはちょうどいい……)

 その瞬間、凄まじい頭痛に襲われた。

 「狩人」が、本気で意識の表面に現れようとしているのだ。

「あら、ちょうどいい……『狩人』!  私はお前を惨たらしく殺すためにわざわざここにきたのよ!」

 やめろ、と叫ぼうとしたが頭の痛みはより強烈になっていく。

 もし「狩人」が出てきたら、間違いなく彼は御華子の命など気にもとめないだろう。

 あるいは風宮の攻撃から身を守るための、「人間の体でできた盾」として使いかねない。

 そのとき、御華子が言った。

「大丈夫です……御子神さん……『あのお方が私たちを守ってくださいます』」

 まるで何かに憑かれたような、平板な声で少女がつぶやいた。

 省吾は頭痛に顔を歪めながら、彼女が……あるいは『彼女に流れる血』がなにを求めているか、理解した。

 龍蛇の近海には今、九頭龍権現の眷属ともいうべきものが存在しているのだ。

 朗々と、御華子が冒涜的な祝詞を唱え始めた。


 ふんぐるい・むぐるうなふ・くとぅるふ

 るるいえ・うがふなぐる・ふたぐん!


 この呪文そのものには、特殊な力があるわけではない。

 しかしそれでも九頭龍権現、すなわちクトゥルフ、クトゥルーなどと呼ばれる遥か海底に眠る『ハスターと敵対する旧支配者』にむけられた言葉なのだ。

 途端に、風宮の額に刻まれた『黄の印』が、病的な明滅を始めていった。

「神が……昴神が私を……」

 まるで御華子の唱えた呪文に呼応するように、風宮の肉体も変化を始めていた。

 だが、厳密にはそうではない。

 風宮は「御華子の呪文による呼びかけに応えたもの」に反応しているのだ。

 省吾にも「それ」の存在が、強烈に感じ取れた。

 もともと魔道士である「狩人」と同じ脳を共有しているためかもしれない。

 人類とは異質な、数億年前に遥か遠い天体からエーテルの海をわたって飛来してきた種族、もしくは群体とでもいうべきものの一部が、いま龍蛇近くの海底で活発化している。

 御華子はもともとが「神の妻」となるべき存在だ。

 人魚の子供をはらむのではなく、あるいは彼女はより大いなる子を産むために「御華子」に選ばれたのではないか、という気がした。

 おそらく「神主さん」ですら、そこまではわからなかったろう。

 精神を舐められるような異様な感覚に全身が震えていく。

 恍惚とした声を御華子が発した。

「落とし子が……九頭龍権現の眷属が、私を呼んでいる……」

 すでに御華子の大きな瞳は、とろんとしている。

 それと同時に、崖下でも異変がおきつつあった。

「おお……神よ……いあ・はすたあ……我が肉体をご所望なのですか……ああ……あああああああっっ」

 風宮の裸身が性の絶頂を迎えたかのようにぐっとのけぞらされた。

 口からだらだらとよだれを垂らし、四肢を痙攣させている風宮の歓喜は、実際には性の悦楽などを遥かに凌ぐものだろう。

 彼女の魂も肉体も、すべて神のものであり、その神と強く霊的に繋がっている。

 だとすれば、数百光年の距離を超えて「風宮の肉体のなかに異星の神の力が流入する」ということも、ありえるはずだ。

 果たして風宮の額の「黄の印」が、うねうねと蠢き始めた。

 本来は額に刻印されていたものがまるでそれ自体、生を得ているかのように触手をくねらせたかと思うと、一気にいままで白かった風宮の顔の皮膚が病んだような黄色に変色していった。

 さらにその顔の皮が、まるで仮面でもはずすかのように、べろりとむけていく。

 顔の下の桃色の筋繊維や黄色い脂肪、歯茎や眼球といったものがむきだしにされたが、まだ変化はとまらない。

 風宮の肉体は膨満を始めていた。

 しだいに人としての形を失い、無数の太い縄を束ねたような姿へと変貌していくのだ。

「あがあああああああああああああ」

 風宮の声帯だったものから、もはや人類ではありえない類の咆吼が発されていた。

 いまや風宮を形作っていた無数の縄の束には黒っぽい鱗のようなものが生え出している。

 その鱗は生物のようでありながら、おそらく地球上には存在しない謎めいた金属でつくられているように、省吾には思えてならなかった。

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