8 フェンリル

「君はなぜ、彼らがフェンリルと呼ばれているか知っているかね?」

 さすがに緊張した。

「さあ……」

 どういうわけか、伊藤はこの作戦の警察側の指揮官をつとめる男の、補佐役として選ばれた。

 最初に男を見た時は、慄然とさせられたものだ。

 彼の顔が、異形とすら言ってもよいほどに、損壊させられていたからである。

 ひどい火傷、もしくは凍傷にあったように顔面のいたるところが欠落していた。

 頭蓋骨に粘度を適当にくっつけ、そこに白い髪をまばらに生やしたら、たぶんこんな感じになるのではないだろうか。

 醜い、というレベルを超えている。

 だがさらに不気味なのは、本人がその異相をまったく気にもとめていないということだった。

 現在は整形外科の技術も進んでいるので手術をしたらしいが、それでもこの有様なのである。

 特に警備部や公安部の刑事は目立つことをなにより嫌うが、この男にはそんな常識は通じないようだ。

「フェンリルというのはだね」

 男があちこちで歯茎がむきだしになった口を開いた。

「北欧神話に出てくる、伝説の巨大な狼のことなんだよ」

 そんなことは伊藤は全く知らなかった。

「狼……ですか」

 間が抜けた答えだとは思っていても、それくらいしか言えない。

「そう、狼だ。そもそも北欧神話というのは陰鬱な話で、やがて神々と巨人族の戦いにより、世界は滅びるとされている。それをラグナロク、『神々の黄昏』というのだが……」

 どこかで聞いた言葉のような気がしたが、むろんどんなものか実感などわくはずもない。

 ふだんは国内に侵入した工作員や協力者の内偵を行っている人間に、神々の黄昏などと言われても困る。

「フェンリルはそもそも、ラグナロクを引き起こしたロキの息子だ。ロキはアース神族と敵対する巨人族の子でね」

 なんのことか見当もつかなかったが、余計なことは聞かないほうが賢明だろうと判断した。

「フェンリルは、そのロキの子でもある。ラグナロクで、この巨狼フェンリルは『神々をくらう』んだよ」

「なるほど」

 適当に相槌をうったが、なんだかおかしな話だ。

 それでは自分たちの敵が、まるで「神々」のようではないか。

「神々をくらう狼……やはり今回のような任務にはうってつけだ。もっとも、まず今回は『神』は出てこないと思うが。ただ油断は禁物だがね」

 伊藤は不安を覚えた。

 まず、この男の正気が心配になったのだ。

 もともとC事案に関わった人間の精神は不安定になるという。

 どうやら彼は、かつても幾つかのC事案で指揮をとっていたらしい。

 だとすれば、すでに正気を蝕まれていてもおかしはくないのだ。

「どうした? 私の正気を疑っているのかな」

 こちらの心を見通したように男は言った。

「いえ、そんな……」

 顔に脂汗が浮かんでいくのがわかる。

「いや、君の疑問も当然だよ。私が『神』と言ったのがひっかかったのだろう」

 図星だ。

「だが、相手はある種の『神』といっても良い存在なんだ。まだ君には信じられないかもしれないが……いや、まあ、知らないほうがいいな。君は、県警でも特に精神が強靭だとは聞いている。だからこそ、君を補佐に選んだんだ。同時に君は常識人であるとも聞いている。しかし、それでいい。実のところ、君は今回の作戦内容にも疑問を抱いているのだろう。警察は直接、かかわらないとはいえ、自衛隊のフェンリルたちは、この龍蛇の集落の人間を見殺しにしようとしているのだからねえ」

 だんだん気味が悪くなってきた。

 この異相の男は、あるいは人の心でも読めるのだろうか。

「いや、君の疑念は当然だ。いくら後ろ暗い事案に関わる公安警察の人間とはいえ、人命尊重という日本警察の基本理念には忠実だということがよくわかる。ただね……心配することはないよ。今回、我々はほとんど『殺人』は行わない。ただあの薄汚い、いまいましい魚や蛸の配下の化物どもを『駆除』するだけなのだから」

「駆除……」

 思わず伊藤はつぶやいた。

「そう、駆除だ。あいつらはそうされて当然の存在なんだ。汚らわしい海の汚物の消毒、と言い換えてもいい」

 男の声からは、憎悪めいたものが感じられた。

 なにしろ顔がひどく損壊されているのでわかりづらいが、その瞳には明らかに狂気じみた憎しみが宿っている。

「人間の姿に騙されてはいけない。龍蛇集落の人間の血は、ほとんどがあの海からの化物どもに『汚染』されている。あの冒涜的な、この世にあってはならぬ汚らわしい汚物どもは人間とも交配し、近親婚によってさらにその醜い、醜悪な血を濃くしているのだよ」

 いくらなんでも、と言いたくなった。

 そんなことは、生物学の常識的にありえないはずだ。

 人類が他の種族と交雑などできるはずがないのだから。

 しかし、と思い返す。

 確かにあれは「ただの生物ではない」のだ。

 人とも、魚とも蛙とかもつかぬ画像を改めて思い出す。

 あれの血をひいているものは、後々、災厄にしかならないのだろう。

 ある意味では、この男の言うことは正しいのだ。

 神だか怪物だか知らないが、奴らは人類とは本質的に相容れない存在だと、ほぼ遺伝子レベルで伊藤は認識していた。

 最初の会議のときから、あの半魚人めいた姿の怪物に襲われる悪夢を何度も見た。

 精神的な強さには自信のある伊藤でさえ、そうなのだ。

 この警視庁公安部から派遣された男の言うとおりにすべきだろう。

 男の正式な階級も所属も知らされていない。

 むしろ知らされずに、安堵したほどだ。

 万一、C事案のことを口外した場合、密殺もありうると伊藤は踏んでいた。

 だから知っていることは少ないほうがいい。

「我々の手であいつらを地上から駆除してやりましょう……針崎さん」

 針崎と呼ばれた男は満足気にうなずいた。

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