9 怪生物

 時間の流れがひどく緩慢に感じられる。

 とりあえず瑞江が、民宿に軟禁された者たちのためにおにぎりをつくってくれた。

 およそ現実感というものが感じられない。

 魔道士。自衛隊と公安警察。

 そしてこの世のものとは思えぬ半魚人。

 たまたま訪れた旅行先でそんな事件に巻き込まれるなど、常識からかけ離れている。

 テレビではパチンコのコマーシャルに続いて、地元ローカル曲の番組をやっていた。

 東京の地上波では見かけたことのない芸人が、なにやら喋っている。

 一見するとごく日常的な光景なのに、なにかが致命的にずれている。

 港に浮かんでいた央一の死体が、脳裏をよぎった。

 あれもはなにかの間違いではないのか。

 さらに御華子が贄として捧げられるなど、あまりにも途方も無い。

 たちの悪い悪夢に彷徨い込んだようにしか思えない。

「これから……僕たちはどうすればいいんでしょうか」

 省吾の言葉に、風宮が笑った。

「どうしようもないでしょう。私たちは、これから蛇権現へと連れて行かれる。ただそこでなにが起きるか、薄汚い魚連中には想像もつかないでしょうけど」

 やはり風宮はこの集落を相当に嫌っているようだ。

 この自分を憎んでいるのと同じように。

 なにかの誇大妄想に取り憑かれていると普通なら判断するところだが、彼女の告げたインスマウスという単語が妙にひっかかっていた。

 明らかに自分はなにか大事なことを忘れている、もしくは「忘れさせられている」。

 そんな気がしてならない。

 いつのまにか、外から雷鳴が轟いていた。

 急激に空が黒く曇ったかと思うと、激しい勢いで水滴が屋根や窓硝子を叩き始める。

「蛇権現様が……」

 瑞江がつぶやいた。

「でも……まだ御華子が贄には早いと知れば、蛇権現様を許してくださるかもしれない……そう、きっと……そうよ……」

 ある意味で、瑞江は現実逃避を始めたようだ。

 自分の夫が惨殺され、娘が神に捧げられるという異常事態になれば、まともな精神を保っているのは難しい。

 さきほどから大量のおにぎりをつくっているのも、一種の現実逃避かもしれなかった。

 御華子は顔を蝋のように白くしたまま、今の隅で体育座りをしている。

 ときおり窓から、屈強な男たちが部屋のなかを覗き込んできた。

 なかには漁業用の三叉の銛を手にしている者もいる。

 彼らは雨に打たれてもさほど気にとめていないようだ。

 猟師なので濡れるのには慣れているのか。

 それとも、また別の理由があるのか。

 いつのまにか、また右腕が疼きだしていた。

 省吾のなかの恐怖心と呼応するようにして、痛みはひどくなっていく。

 幻肢痛というのは、あるいは精神的なストレスとも関係しているのだろうか。

 このままでは、たぶん自分も蛇権現とかいう神の生贄に捧げられる。

 権一郎も沈黙を保っていた。

 この民宿にいる者、全員が、ある意味では犠牲となってもおかしくはないのだ。

 そのなかでただ一人、余裕をみせる風宮はやはり普通ではなかった。

 もちろんそれなりに緊張はしているのだが、なにか勝算でもあるような感じなのだ。

 じりじりと時間が進み、いつしか午後四時近くになっていた。

 あたりはかなり暗い。

 外の様子も雷雨のせいでよくわからなくなってきた。

 背筋に恐怖がはいのぼってくる。

 逃げたくとも、逃げられない。

 この集落の住民のほとんどは、カルト宗教の狂信者のようなものなのだ。

 すでに死者が出ているのに、誰も特に怖気づいた様子もなく、儀式が始まるのを待っている。

 とても正常な現代日本人の感覚ではありえなかった。

 そのとき、いきなり玄関が開けられた。

「そろそろ、時間だ。お前たち、光栄に思うことだな。蛇権現様の神社には、本来ならごく限られたものしか入れないのだぞ」

 そう言った男は、見事な「人魚顔」をしていた。

 他にも、人魚顔をした男や老婆たちが、いやらしい、不快な笑みを浮かべている。

 抵抗しても無駄だ、と直感的に省吾は悟っていた。

 いつか隙が出来るのを見つけるしか無い。

 きっとチャンスはあるはずだ。

 心臓の鼓動がひどく大きく破れ鐘のように聞こえてきた。

 心拍数がとんでもない勢いで上昇していく。

 せめて御華子だけでも、一緒に逃さねばならない。

 風宮はどうでもいいが、権一郎と瑞江も気になる。

 しかしやはり大事なのは御華子だ。

「ほら……しっかりしろ」

「いや……いやあああっ」

 屋内に土足のまま上がってきた人魚顔の男たちは、御華子を強引にひきずるようにしていた。

 御華子の顔には、絶望が浮かんでいる。

 無理もなかった。

 一同は傘やレインコートで雨から体を守られることもなく、土砂降りの外に無理やり、引きずり出された。

 幾つもの懐中電灯の光が闇を日切り裂いていく。

 一度、堤防沿いのアスファルト道路に出ると、そこから南の山へと続く、細い小路へと連れられていった。

 相変わらず、銛を持った男たちがいる。

 ここでうかつに抵抗すれば、彼らが即座に銛を使うだろうということが、その殺気立った空気がわかった。

 ただ一人、風宮だけは水に濡れながらも、平然としているのがかえって不気味である。

 空で稲妻が走った刹那、風宮が天を仰いだ。

 つられて上を見た省吾は、雲の間にひどく奇妙な、何物かの影を見たように思った。

 ほんの一瞬のことなので、たぶんなにかの見間違いだろうとは思うが、一斉に肌が粟立っていく。

 それは鳥のように飛行していたのだが全体の体つきが鳥とは明らかに異なっていたのだ。

 地球上の生物には、それ相応の規則性というものがある。

 たとえば鳥類や蝙蝠など別種の生き物でも、こと羽の構造などば全体に似通っているものだ。

 まったく別種の生物でも、イルカや鮫のヒレのつきかたなどはよく似ているのと同じことだ。

 だが、いま垣間見えたものは、少なくとも省吾の知っている地球上の生物とは、明らかに異質だった。

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