10 九頭龍権現

 羽らしいものがあったが、その構造が鳥や蝙蝠ともかけ離れているのだ。

 ではなにに似ているのか、と問われれば答えようがない。

 つまり、地球上に、似たものが存在しないのである。

 幻覚だ、と思おうとした。

 たたでさえ危機的で非常識な状況に置かれた場合、人間の脳はすぐに騙される。

 しかし気になるのは、風宮のどこか満足げな笑みだった。

 彼女は、あの額の知れぬ空飛ぶ何物かを知っているのだろうか。

 まるで力強い味方を得たような、そんな表情をしていたのだ。

 やがて道はひどく狭くなってきた。

 岩場に向かって続いており、ぽっかりと穴が開いている。

 どうやら、ここから先は洞窟になっているようだ。

「神聖な地だ。ありがたく思え」

 一人の人魚顔が、ふいに真面目な顔で言った。

 省吾たちから見ればどんな邪教であっても、彼らにとってはやはり聖地なのだろう。

 懐中電灯であたりの岩肌を照らされたが、天然のものに後で手を加えた感じがした。

 少なくともこのあたりは、石灰岩ではない。

 鍾乳洞特有の石筍などがまったく見られないのだ。

 それでも壁面に描かれた浅い浮き彫りのようなものは、いままで見たこともない意匠のものだった。

 魚らしいものや人とおぼしきもの、さらにひどく大きな半魚人や、なにかの頭足類らしいものを描いたらしいものがある。

 あるいはこれは、かなり古いものなのではないか、という気がした。

 少なくとも弥生時代より前、縄文時代あたりのもの、という感じがする。

 なぜか、と言われると説明が難しいが、どこか非人間的とも言える旧さを感じたのだ。

 ある意味では、この龍蛇には従来の科学や歴史の常識を覆すものだらけだ。

 一体だれが、山陰のこんなちっぽけな漁村に、これほどの秘密が隠されていると想像できるだろうか。

 風宮の言葉は大げさではないのかもしれない。

 なにかこの世には、いまだほとんど人智のおよばぬ未知の領域があり、この龍蛇集落はそうしたものが現世と交わる、貴重な場所なのかもしれない。

 だが、だとしたら魔道士がどういうこという言葉も、本当なのだろうか。

 いくら現代の宇宙論が不可解な問題を抱えているとはいえ、簡単に魔術などというものを信じる気にはなれなかった。

 さらに奥に進むとしだいに水音が聞こえてきた。

 明らかに海水とおぼしき磯の強烈な香りが漂ってくる。

 おそらく海中と繋がっている水中洞窟があるのだろう。

 ふいに、視界が一気に開けた。

 かなり広い、ホールのような場所だ。

 中央には水をたたえた地底湖らしきものがある。

 手前には、いままで見たことのない様式の鳥居らしいものがあった。

 垂直に立つ二本の柱には鱗を模した模様のようなものがびっしりと彫り込まれている。

 その上を横に走る貫からは、何本もの汚れた注連縄が垂れ下がっていた。

 色合いは奇怪な黒ずんだ緑色で、なにかの粘液を塗りたくったようにも見える。注連縄の数を数えると、合計で九本あった。

 これにもなにか、意味があるのだろうか。

 さらに鳥居の向こうに、異様な建造物がうずくまるようにして建てられていた。

 もともとは木材を用いて建てられたのだろうが、やはり緑色っぽい、どこか吐き気を催すような軟泥で表面を塗装されている。

 さらに奇怪なことに、見る角度によってその建物の大きさや凹凸といったものが、まるで違って見えるのだ。

 まるで非ユークリッド幾何学に従ってつくられた建物のようだが、通常の三次元ではむろんそのようなものはありえない。

 基本的には神道の形式で建立されたようだが、省吾の知るどんな神社建築とも異なっている。

 あちこちに注連縄が飾られているが、目の錯覚なのか、じっと凝視しているだけで、それがなにかの触腕のように蠢いているようにすら思えた。

「なんだ……この神社……」

 思わず省吾は口に出していた。

「ただの人間にはこのありがたさはわかるまい。我らが神、蛇権現よりさらに大いなる九頭竜権現の住まう神殿を模したものだ」

 人魚顔の一人が、耳障りな低い声で自慢気に言った。

「九頭竜権現……」

 日本の各地で、九頭龍なる存在を祀った神社が存在する。

 福井や箱根のものが有名だが、だいたいは水神の一種とされている。

 だが、ここで人魚の言っている九頭龍権現というのは、果たして自分の知っているそれと同一なのだろうか、と省吾は思った。

 この神社は、どうみてもまっとうなものではない。単なる特定の地域で祀られている地方の神というのではなく「もともと神道の神と似て非なるものを祭祀している」ように思えてならないのだ。

 そのときだった。

 青鈍色のローブのようなものをまとった小柄な人影が、いつのまにか神社のそばに立っていた。

 まるで突然、空間の影から現れたようにも見える。

「神主さん……」

 御華子が震える声で言った。

「さよう。御華子。喜ぶが良い。今宵、お前はめでたく、我らが神の妻となるのだ」

 明らかに御華子は恐怖している。

「神……神って、あ、あなたたちの言う神というのは、一体、なんなんだ……」

 神主が頭巾で顔を隠したまま、言った。

「我らが崇める神は、すなわち人魚様であり、蛇権現様であり、そして九頭龍権現であられる。御華子は、そのなかでも特に選ばれたもの。神々とまぐわい、良い子を産んでもらうこととなろう……」

 正気ではない。

 やはりここの蛇権現信仰はある種のカルトのようなものだと思ったその瞬間、おそらくは海中に繋がっているであろう池のなかから、奇怪なものが姿を現した。

 頭部はつるりとしており、あまりにも巨大な眼球を持っている。魚と蛙をあわせたようでありながら、よろよろと跳びはねるようにして、神社へと近づいていく。

 しかもその数は、一体や二体ではない。

 十数体の「人魚」が出現したのだ。

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