10 足跡
今日も相変わらず、喪服のような黒いワンピース姿である。
「偽善者」
ぽつりとそう言うと、彼女は踵を返して去っていった。
さすがに省吾も苛立ってきた。
初対面のはずの相手に、なぜそこまで言われなければらないのだろう。
だが、彼女の黒い瞳に宿っていた憎悪は本物だった。
まったく、わけがわからないことだらけだ。
しばらくすると、私服に着替えた御華子が戻ってきた。
「よし。これで準備完了だ。さっそく、半魚人がいたっていう場所を調べてみよう」
そう言うと二人で玄関で靴を穿き、外に出た。
御華子の案内で民宿の脇の小道のようになったあたりに向かう。
幅は六十センチほどのひどく狭い空間で、すぐ隣に隣家の壁があった。
「私の部屋……あのあたりです。ほら、あの窓のところ」
そのとき、省吾は妙なことに気づいた。
「ちょっと待って! そこから動かないで、一度こっちに戻ってきて。草が倒れているし、なにかの足跡みたいなものがある」
「嘘!」
それはこっちの科白だった。
「でも、よくわかりますね」
「僕、視力はいいんだよ……」
御華子にかわり狭い敷地に入ると、信じられないことだが、確かに窓の手前に何物かが踏み荒らしたような痕があった。
草は踏み倒され、その下の黒い柔らかな土に、はっきりと奇怪な足跡が刻印されている。
「人間の足跡……かな?」
一見すると人の裸足の足跡に似ているのだが、すぐに省吾は異常に気づいた。
指と指の間に、水かきのようなものがついているとしか思えないのだ。
目の錯覚にしては、あまりにも生々しい。
他にも幾つもの足跡があたりに残っていた。
背筋に冷たいものが走っていく。
これもあるいは高次脳機能障害の起こした幻覚だとでもいうのだろうか。
そう考えるのが、いまではもっとも理性的な思考に思える。
しかしこれが幻覚ではないとすれば。
あるいは手の込んだイタズラかもしれないが、わざわざこんなことをする意味があるとも思えない。
ひょっとしたら御華子もグルかもしれないが、だとしたら迫真の演技力だ。
一介の大学院生にこんなイタズラをしかけて、なんの意味があるというのだろう。
「あの……どうでしたか?」
予想外の展開に、しばしなんと答えるか省吾は悩んだ。
もしこれが現実なら世紀の大発見だが、明らかに御華子は半魚人を怖がっているようだ。
「うーん……ごめん、よく見たら、見間違いだった」
「ですよねえ」
心なしか、幾分、御華子はほっとしたようだ。
「でもあんなリアルな夢ってあるんですかね。匂いとかまでしたんです。ものすごい生臭い匂いで……」
なるほど嗅覚つきの夢というのは、かなり珍しい。
ふと、ある仮説を思い出した。
ホモ・アクエリアス仮設というものだ。
この説によると、かつて人類は一時期、水辺で暮らし、しょっちゅう水中に入っていたという。
このため頭部の髪や生殖器など重要な部分いがいの邪魔な毛がすべてなくなったという説である。
また陸棲哺乳類のなかで人類が際立って水中での活動力が高いのも、かつての生活の名残、とされている。
もっともこの仮説は現在では否定的な学者が多いのだが。
だが、もし仮説があたっていたとしたら、かつての水中に適応した人類の手足には水かきが残っていたとしても、おかしくはない。
実際、今でも水かきの痕跡のようなものが手の指の間に残っている人もいるのだ。
そうしたなかでも極端な先祖返りがいたとしたら、これはある種の「人間の足跡」ということもありうる。
さらにいえば、この龍蛇の集落には「人魚顔」という顔の人々がいるのだ。
ここにはそうした遺伝子が強く残っている可能性は捨てきれない。
とはいえ、もしそれが事実ならまた別の問題が持ち上がってくる。
「裸足で人魚顔をした人間が夜中に女子高生の寝室を覗いていた」ということになるのだから。
それを父の不在で精神的に不安定になっていた御華子が半魚人と見間違えた、というのならかなり合理的にこの事象が説明可能だ。
もっとも、それをいま御華子に告げるのは危険過ぎる。
やはり御華子を付け狙うストーカーは実在していた、ということになるからだ。
そうなれば、かえって彼女を怯えさせてしまうところが難しいところだった。
かといって放置しておくのも危険だ。
さすがに夜中、寝室までのぞきにくるというのは完全に犯罪だ。
しかもこの集落では警察力も頼りにならない。
それにしても、と思う。
御華子の父、央一は昨夜、ストーカーの話を聞いたら異常な反応を示していた。
彼は「まだ早いはずだ」と言っていたのだ。
これではまるで「ある時期がきたらそのような目にあってもおかしくはない」ともとれる言葉ではないか。
やはりこの集落は普通ではない。
そしてこの集落の異様なまでの排他性は、おそらく「蛇権現信仰」にあるのだろう。
まさかとは思うが、いまだにここでは世間の常識ではとても考えられない、悪質なカルトのような儀礼がとり行われているのだろうか。
少なくともここの蛇権現信仰は、省吾の知っているセグロウミヘビを起源とするものとはだいぶ異なっている気がする。
あるいは元は一緒でも、長年のうちに信仰の内容が変質してしまったのかもしれない。
たとえば九州の僻地ではいまだに昔ながらのキリシタン信仰が残っているとされているが、もはや元のローマ・カトリックの教えとは似ても似つかぬ、独特の変化をしたとされている。
それと同じようなことが、この龍蛇で起きていてもおかしくはないのだ。
もし集落のもの全員が蛇権現の熱心な信者であれば、全員が口裏をあわせればどんなことでも可能だろう。
もともと警察でも介入が嫌がるような土地柄なのだ。
想像もしたくない話だが人を一人、殺してもみながつるんでいれば誰からも疑われない。
さすがに妄想がすぎるだろうか。
だがさしもの省吾も、昨日からの奇怪な事態の連続に、この集落の異常性がたぶん密接に変わっているだろうことは想像がつく。
ミケコ、という変った名を聞いたときにはまさかと思ったが、ひょっとしたら「本当にそういう意味」なのかもしれないのである。
神道では神への供物を「神撰」と言うが、また別の表現もある。
それは「御饌」と書いて「ミケ」と読むのだ。
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