9 失われた記憶

 目覚めると、なんだか体がやけに重く感じられた。

 昨日、飲み過ぎたのだろうか。

 もともとかなりの酒豪なのだが、旅の疲れもあるのかもしれない。

 さらにいえば、いつもより右手の幻肢痛がひどかった。

 布団から起き上がり、すぐに異変に気づいた。

 昨日は民宿で出された浴衣姿で眠ったはずなのに、いまの省吾は服を着ていたのである。

 気分が悪くなった。

 また高次脳機能障害の影響で、夢遊病のように昨夜、あたりをさまよったのだろうか。

 ときおり、こうしたことがあるのだ。

 さらにシャツを見て、ぞっとした。

 ごく小さな、赤黒い染みのようなものがある。

 あるいはこれは、血痕ではないのか。

 いいようのない恐怖に襲われた。

 まさか知らないうちに、誰かに暴力をふるって返り血を浴びた、ということもありうる。

 いや、まだその程度ならいい。

 最悪の場合、相手を殺しているかもしれないのだ。

「嘘だろう……」

 どんどん悪いほうに考えが向かっていく。

 発作的な記憶喪失は慣れたつもりだったが、やはり「自分がなにをしたかわからない」というのは恐ろしいものなのだ。

 落ち着け、と幾度も自分に言い聞かせながら、洗面所にむかった。

 先客がいる。

 可愛らしいパジャマを着た御華子が、口をゆすいでいた。

 パジャマには明らかな汚れが付着してくる。

 その悪臭からして、吐瀉物だろう。

「あ……ご、ごめんっ」

 省吾はあわてて謝った。

 この年頃の少女ならパジャマ姿、しかも嘔吐物のついたものを着ているところを見られるなど、ひどく恥ずべきことのはずだ。

「い、いえ……」

 だが、御華子の様子は明らかにおかしかった。

 まるで幽霊でも見たように蒼白な顔をしていたのだ。

 まさか、自分の昨夜の行動となにか関係があるのだろうか。

「どうしたの? なんだかすごい顔しているけど」

 そこで自分にむかって心のなかで舌打ちした。

 女性にむかって失礼にもほどがある。

 だが、いまの御華子はそんなことを感じる余裕もないようだった。

「私……頭、おかしくなったのかもしれません。夢にしては、ひどくリアルすぎて……」

 やはり昨夜、なにかあったようだ。

「ありえませんよね……私、半魚人、見ちゃったんですよ……あはは、ははは」

 うつろな笑い声にぞっとした。

 かなり彼女は、精神的に不安定なことになっている。

「あの……俺でよければ、話してくれないかな。昨夜、なにかあったの?」

「だから、半魚人ですよ」

 御華子がまた笑った。

「半魚人が、窓の外に立って私を見ていたんです」

 これはまずいかもしれない。

「そういえば……あの、君のお父さんは?」

「それが、まだ帰ってないんです」

 省吾は驚いた。

 さすがに朝までには戻ってくるとばかり思っていたのだ。

 嫌な予感がしてならない。

「もう……私どうしていいか……なんで、いきなりこんなことに……」

 ぼろぼろと、御華子が涙を流し始めた。

「落ち着いて、御華子ちゃん」

 狼狽しながらも省吾は言った。

「大丈夫……きっとお父さんはちゃんと帰ってくるから。それに、半魚人は夢だよ。君はお父さんのことが心配で、きっとなかなか寝つけなかった。そういう心理的に不安定なときは、人間は悪夢を見やすくなるんだ」

「でも、あれが夢だとはとても思えないくらいにリアルで……」

 泣きながら御華子は顔を歪めた。

 ここは、あるいは適当に調子をあわせたほうがいいかもしれない。

 それで彼女の精神が落ち着くのならば。

「いままで、そういうのを見たことはあるのかな」

「ないです。あんなのは初めてで……」

「あのさ、UMAってのは知ってるかな」

「ええと、雪男とかネッシーみたいな生き物でしたっけ」

 省吾はうなずいた。

「そう。世の中には、まだ未発見の動物がたくさんいると言われている。たとえばゴリラだって、昔は実在なんてしないと思われていたんだ。そうした生物に、御華子ちゃんは遭遇したのかもしれない」

 表向きはそう言ってみたが、内心、そんなことをまったく省吾は信じていなかった。

 父が深夜になっても帰ってこない不安により多感な思春期の少女が見た悪夢、というほうが遥かに説得力がある。

「とにかく、ちゃんと顔を洗って、一度、綺麗な服に着替えるんだ。そのままじゃせっかくの可愛い顔が台無しだよ」

 セクハラかなとも思ったが、御華子は顔を赤くして照れくさそうに言った。

「本当に、御子神さんて優しいんですね」

 こういうときだけは、この顔に生まれついて得だったと思う。

 人にいえば反感を買われるので口に出したことはないが、省吾は自分の顔が嫌いだった。

 ナルシストなら話は別かもしれないが男が「美しい」と言われるのかなかなかに複雑なものなのだ。

 女性がいれば騒がれるし、男性からは女のような奴だと言われる。

 むしろもっと男らしい顔つきに生まれたかったと、いつも思っていた。

 しかしこの顔で、今回のように得をすることもあるのも事実なのだ。

「さあ、ならば善は急げだよ。それが終わったら、二人で半魚人が立っていたってあたりを調べてみよう」

 頬を上気させると、急いで顔を洗った御華子が廊下を走っていった。

 省吾を洗面をすませたが、ふと背後から刺すような視線を感じた。

 顔をあげると鏡の中に、あの仮面のような顔をした風宮という女性がいた。

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