8 異形の訪問者

 そういえば、きちんとカーテンを閉めていなかった。

 いままで自分がいかに動揺していたか、よくわかる。

 心臓の鼓動が高なっていく。

 気のせいに決まっている。

 窓の外になにかがいるはずがないのだ。

 しばらく布団のなかに縮こまっていたが、不安感がますます強まっていく。

 氷の手が心臓を鷲掴みにされたかのようだ。

 恐怖のあまり、吐き気までしてきた。

 これでは駄目だ。

 ちゃんと確認すればいいだけのことである。

 窓の外には、誰もいないと。

 何度か深呼吸をすると、布団から起き上がった。

 畳を踏みしめて、窓辺へと向かう。

 そして、御華子は見た。

 板硝子のむこうに、異形としかいいようのない「なにか」が存在しているのを。

 頭が真っ白になった。

 悲鳴すら出ない。

 脳が現実を拒絶しているのだ。

 こんなものが、いるはずがないのである。

 なのにそれは、月影を浴びて黒々とした姿を晒していた。

 一言で言い表わせば、半魚人が一番、近いだろう。

 身長はだいたい百五十センチくらいだろうか。

 ただかがんでいるので、実際よりもいくぶん、背が低く見えているのかもしれない。

 窓を通してさえ、強烈な生臭い臭気が伝わってくる。

 あまりにも巨大な二つの目。

 鼻がどこにあるのかは、よくわからなかった。

 そのかわりに、首のあたりに鰓としか思えない器官がついている。

 角度の関係でよく見えないが、脇腹から背中にかけてやはり魚を思わせる鱗に覆われているようだ。

 体全体は汚らしい暗緑色だが、腹部が洞窟に棲む光を生涯、浴びぬ魚のように生白い。

 大きな口は、蛙を連想させるもので、そこには鮫のような鋭い歯が無数に並んでいた。

 まず間違いなく肉食だろう、とどうでもいいことを考える。

 ただの魚の化物ならばまだ良かったのだが、その体の輪郭は明らかに人間に似ていた。

 手足があり、胴体も存在する。

 だがガニ股の脚も、妙にねじくれた両腕も明らかに人間のそれとは筋肉のつきかたが違っていた。

 脚はやたらと太腿が太く、蛙のようでもある。

 半魚人と蛙を足して、二で割ったらたぶんこんな感じになるだろう。

 しかし、あまりにも忌まわしい生物だった。

 陸上でも、鰓のあたりが動いているのは鰓呼吸をしているのだろうか。

 なまじ人間に似ているぶん、そのグロテスクさがひどく際立っていた。

 きわめて醜悪かつ悪趣味な、人間のパロディのようだ。

 最近はメイク技術なども発達しているというが、そうしたものを用いて作られたものではないことは直感的にわかった。

 信じがたいが、これは生き物だ。

 なによりもおぞましいのは、この怪物の目だった。

 もしこれがただの魚の目だったら、まだましだったろう。

 確かに不気味で奇怪な怪物だが、これほどの衝撃をうけることもなかったはずだ。

 だが最悪なことにこの異様な半魚人めいた生物のぎょろりとした眼球には、確かにきわめて高度な、おそらくは人間並の知性が存在しているとしか思えなかったのだ。

 しばらくの間、怪物は窓越しにじっとこちらを観察していた。

 舐め回すようにじろじろとパジャマに包まれた御華子の体を見つめている。

 とてつもない生理的な嫌悪感に襲われた。

 たまに、こうした視線で見られることがある。

 女性なら、おそらく誰しも一度は経験したことがあるはずだ。

 つまりは、この生物は「人間の男が女性を性の対象として見るような目」で自分のことを見ているのだ。

 体中が震え、ざあっと全身の皮膚が粟立っていった。

 さきほどまで考えていた、妄想とも思えた思考は、あるいは鋭いところをついていたのかもしれない。

 もし蛇権現様が実体を持った生物であったとしたら。

 それが、この人と魚と蛙を組み合わせたような、この世ならざるものであったとしたのなら。

 つまり、神の妻になるということは、この生物と交合し、子供を産むということではないのか。

「あ……」

 ようやく、声が漏れた。

「あ……ああ……」

 必死になって助けを呼ぼうとしたが、駄目だった。

 声に力が入らないのだ。

「た……たす……け……」

 かすれた声が無意味に声帯を振動させる。

 そして、衝撃的なことが起きた。

「オ……マ……エ……」

 一瞬、なにが起きたかわからなかったが、硝子窓の向こうであの怪物が「言葉を発している」ことがようやく理解できた。

 明らかに不自然で、人間とはまったく構造の異なる口腔を操り、なんとか話しているといった感じだ。

 その声も奇妙に甲高く、耳障りで、不快きわまりないものだった。

「オ……ト……ナ……ナ……タ……」

 それが「大人になった」と言いたいのだと、すぐにわかった。

 怪物の目は、御華子の胸のふくらみのあたりに注がれている。

 限界だった。

 凄まじい悪臭と嫌悪感と恐怖が交じり合い、胃が蠕動する。

「う……うろろろろろろ」

 必死になって、御華子は嘔吐した。

 目からは涙が溢れてくる。

 夕食で食べたまだ未消化の魚の破片を見た時は、もう一生、魚は食べられないかもしれないと思った。

 これは現実じゃない。

 全部、悪い夢なのだ。

 荒唐無稽すぎる。ありえないことだらけだ。

 だとすれば、夢だと考えるのがもっとも合理的ではないか。

 しかし、ならばこのリアリティはなんなのだろう。

 吐瀉物の匂いも、さらに強烈な腐った魚のような悪臭までもが夢の産物だというのだろうか。

 口の中では胃液特有の酸っぱい味までするのだ。

 味覚や嗅覚つきの夢など、いままで見たこともない。

 それが限界だった。

 脳の電源が切断されたように、突如、御華子の意識は途絶えた。

 

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