11 不信
御子神の言葉に、少し御華子は安心した。
やはりあれは、あまりにもたちの悪い夢だったのだろう、という気がしてくる。
少し恥ずかしくなった。
考えてみれば、夢のなかで半魚人は自分のことを「大人になったかどうか」観察していたのだ。
これではまるで、欲求不満のようではないか。
もちろん、御子神にはそんな夢の内容まではとてもではないが話せない。
この人がただのお客さんだとはわかっていても、やはりこれだけの美男だと異性として強烈に意識してしまう。
相手が決して手の届かない存在だとわかっているだけに少し哀しいが、いまはそんなことを考えている場合ではなかった。
一応、悪夢の件は片付いたともいえるが、いまだに父は帰っていないのだ。
一体、あれからどこに行ったのだろう。
実をいえば、心当たりがないこともない。
あるいは父は「神職さん」のところに向かったのかもしれなかった。
神職さんは名前の通り、蛇権現に使える神職である。
本名は御華子も知らなかった。
ふだんは頭巾のようなものをかぶっている。
かなり小柄で、腰もずいぶんとまがっていた。
幼いころから一度もその顔を直接、見たわけではないが、どんな顔かは想像がつく。
いわゆる「人魚顔」の典型のような姿をしているのだろう。
そのため、顔を頭巾で隠しているのだ。
やはり生理的に人魚顔の者は好きになれないが、もし遺伝病だとしたら気の毒だとは思っている。
子供の頃は、神職さんのもとに行くのが怖くてならなかった。
いまも月に一度は神職さんと一緒に祝詞を唱えるが、最近は神職さんの声も昔に比べて随分、変わってきたように思う。
おそらく高齢で声もあまり出なくなっているのだろう。
「ところで、お父さんの件だけど……」
御子神の言葉に、どきりとした。
「その、警察はともかくとして、集落の人たちに聞いてみたほうがいいんじゃないかな」
その言葉は正論である。
もしここが龍蛇でなかったら、の話ではあるが。
もし神職さんがらみでまだ父が帰っていない場合、かえって厄介なことになることもありうる。
とにかくここでは蛇権現様が絶対なのだ。
たぶん東京からきた御子神には、この感覚は理解してもらえないだろう。
古い因習にあまりにも強く、龍蛇の集落は縛られている。
いわゆる「田舎特有の濃密な人間関係」だけではない。
秘密主義、排他性、その他、僻地の集落の悪い部分を寄せ集めたような土地なのだ。
「それもそうですけど……もし、蛇権現様がらみのことだったら、たぶんみんな、いろいろ言葉を濁すと思います」
まさか、とは思う。
さすがに考えすぎ、だとも思う。
しかし父の央一は普段は鷹揚で気さくだが、一度、怒ると前後の見境がなくなることがあるのだ。
ひょっとしたら、神職さんになにかとても失礼なことをしたのではないだろうか。
神職さんのまわりには、怖い噂がある。
本気で神職さんを怒らせたものは、そのまま神かくしにあったり、蛇権現様に祟られるというのだ。
「ねえ……御華子ちゃん。お父さんの行方、心当たりとかないのかな」
昨夜も同じ質問を聞かされたが、心臓が跳びはねるような気がした。
「いえ、その……」
御子神の顔から目をそらそうとした瞬間、彼の着ているシャツの小さな染みに気づいた。
赤黒い液体がはねたような痕跡が残っている。
本能的に、それがなにかを御華子は理解してしまった。
血だ。
まるで返り血を少しだけ浴びてしまったかのようにも見える。
ぞっとした。
なぜ御子神のシャツに、そんなものがついているのだろう。
こちらの視線に気づいたらしく、御子神が顔色を変えた。
「あ、これは……その、ちょっと、さっき転んじゃったんだ。それで……」
嘘だ。
ついさっき転んだのなら、こんなに赤黒く変色しているというのは不自然だった。
さらにいえば、転んで出血したあとにはとても見えない。
とっさに下手な嘘をついた、としか考えられなかった。
「なんで……嘘なんて、つくんですか」
御子神は明らかに狼狽していた。
いままでこの人を、少し無条件に信用しすぎていたかもしれない。
いくら美男子だからといっても、考えてみれば御子神という男のことを何一つ、知らないのだ。
大学院に言っているというが、その他の細かい情報を御子神はまったく出していない。
あるいはそれが意図的なものだったら。
さらにいえば、あの風宮という女性が明らかに恨みをこめた目で御子神を見ていたのも、心のなかでひっかかっていた。
ひょっとしたら御子神にふられたストーカーかなにかかと勝手に夢想していたのだが、もっと深刻な秘密がその裏に潜んでいるかもしれないのだ。
「あの、御子神さん……お願いですから正直に答えてください」
真正面から相手の美貌を見据えた。
「風宮さんて人、どう見ても御子神さんを恨んでいるみたいな感じでしたけど……一体、どんなご関係なんですか?」
「関係って言われても……僕も、本当にわからないんだ」
今度はさきほどと違い、嘘を言っているようには思えなかった。
だが、それでも御子神が不審人物であることには変わりがないのだ。
「すみません、失礼します」
衝動的に、御華子は走りだした。
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