12 蛇権現の祟り

 後ろから制止の声が聞こえてくるが、かまいはしない。

 アスファルトの道路を走り、気がつくと漁港のあたりへと向かっていた。

 漁船の燃料である軽油と魚の匂い、そして磯の香が入り混じった独特の臭気があたりに立ち込めている。

 埠頭には、多くの漁船が停泊していた。

 すべて五トン未満の三級船だ。

 龍蛇の漁場は近場なので、それより大きな船は必要ないのである。

 ゴム長を着た男たちがいろいろと作業をしている。

 日本海の波は今日はかなり高くなっていた。

 沖合には黒雲が浮かんでいる。

 経験で、こういうときはだいたい嵐がくるのだと御華子も知っていた。

 たぶん大丈夫だとは思うが、場合によっては漁船を退避させなければならないかもしれない。

 あまりにも海が荒れているときに漁船を埠頭に係留させておくと、それで船体が埠頭と激突して被害がでることもあるのだ。

 FRP製の漁船は、それほど頑丈というわけではない。

 退避の際は、逆に港外に船を出したほうが安全だったりもするのだ。

 もっとも、そうしたときは漁業組合からの通知がくるので、いまのところは心配はなさそうだが。

「おう、御華子じゃねえか」

 中年男の声が聞こえてきた。

 見ると、権一郎がいた。

 権一郎は確か今年で三十になるはずだ。

 子供の頃はよく可愛がってもらった記憶がある。

 龍蛇はいまどきの地方の例にもれず、高齢化が進んでいる。

 さらに若者たちはほとんど、高校を卒業すると都会に出てしまう。

 そのため、もともとこの集落には御華子と同い年くらいの子供が少ないのだ。

 さらに相手が「御華子」という特別な存在のため、集落の子供たちからも敬遠されていた。

 別に嫌われているというわけではないが、親になにか言われているようだ。

 そのせいで孤独な幼少期を過ごしたが、健一郎はかなり歳の離れた兄のような存在だった。

 彼がいなければ、もっと寂しい生活を送っていただろう。

「なにかあったんか?」

 率直にいえば、この集落は気難しく、人付き合いの悪い人間が多い。

 そのなかでも権一郎は例外とも言えた。

 人懐っこく、よそ者とでも別け隔てなくつきあう。

 さらにいえば、彼は人魚顔とはほど遠い顔立ちをしていた。

 以前、噂で権一郎の家は戦後になってこの集落で生活するようになった「新参者」だと聞いたこともある。

 そのせいで、昔から居着いている者たちからは疎んじられることも多かったが、本人はどこかで割り切っているようだ。

「あのね……権一兄ちゃん」

 いつもの呼び名で御華子は言った。

「これ、他の人に言ったら駄目だよ」

「どうした?」

「実は……昨日、お父さんがいなくなったの……」

「はあ?」

 権一郎は驚いたようだ。

「なんでまたそんなことに……」

 経緯を説明すると、権一郎の顔つきが変った。

 こんな顔をした健一郎は、見たことがない。

「まだ早いって……確かに、央一さんはそう言ったのか?」

 御華子がうなずくと、権一郎の顔が蒼白になった。

「そうか……そういうことか」

 それからしばらくの間、権一郎は悩んでいたようだったが、やがてあたりを見渡すと、耳打ちしてきた。

「御華子、いますぐ、ここから逃げろ」

「え?」

 予想もしていない科白だった。

「理由は聞くな。俺には言えない。でも、とにかく逃げろ。瑞江さんも一緒に連れて」

「冗談でしょう? だって、まだお父さんも帰ってきていないし、それにお客さんもいるんだよ。それなのに……」

「命、かかってるんだぞ、お前の」

 そういえば父も言っていた。

 娘の命がかかっているのだ、と。

 それにしても、わけがわからない。

「蛇権現様のお迎えが来たんだ」

 権一郎の言葉に、はっとなった。

 本当に昨夜、見たあの半魚人はただの悪夢だったのだろうか。

 ひょっとしたら、あれは「本物」だったのかもしれない。

 人魚顔。蛇権現。そして半魚人。

 みな海にまつわるものであり、それぞれが繋がったもののようにも思える。

 しかし現実にあんな怪物が存在するとは信じがたい。実際に目撃したはずなのに、いくらリアルであっても理性があの化物の実在を拒絶しているのだ。

 お迎えが来た、などという言葉も縁起でもない。普通、それは死期がやってきたものに使われる表現なのだから。

「とにかく逃げろ。俺は、お前のことを思って言ってる。いきなりのことで驚くのはわかる。でも……」

「あの……さ」

 聞いてしまうのが怖い。

 だが、もし本当に自分の命がかかっているのなら、ここは聞かねばならない。

「半魚人みたいな生き物って、この世に実在すると思う?」

 きっと、権一兄ちゃんは笑ってくれるはずだ、と思った。

 だが、権一郎はまったく笑おうとはしなかった。

 こんな馬鹿げた話だというのに、その顔にはりついていのは、凄まじいまでの恐怖だ。

 ようやく御華子も理解した。

 理解したくはなかったが、現実は現実として認めねばならないようだ。

 権一郎も、あの半魚人のことを知っている。

 ひょっとしたら、集落の大半の者にとっては、あの怪物が龍蛇に現れることは周知の事実なのかもしれなかった。

 しかし、自分には知らされなかった。

 御華子は神の妻になるという。

 いままではあくまでも儀礼的な意味だとしか思えなかった。

 しかし、どうやら考え違いだったようだ。

「嘘……」

 最悪の妄想じみた予想は、あるいは当たっているのかもしれない。

 急に世界と自分の間に、見えない分厚い壁のようなものが生まれた気がした。

 青黒い日本海の波濤も、波に揺れる白い漁船も、権一郎のはいたゴム長も、なにもかもが嘘くさく思える。

 まだ自分は悪夢のなかにいるのかもしれない。なにもかもがおかしくなったのは、御子神が現れてからだ。

 そもそも彼は実在しているのか。あんなに美しすぎる男など、自分の空想の産物ではないのか。

 その瞬間、遠くからの男の声が鼓膜を震わせた。

「誰かが蛇権現様に祟られたらしい。死体があがったって話だぞ」

 その声は異界からのもののように感じられた。

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