6 ラヴクラフト

「その小説のインス……マウスでしたっけ。なんだか……」

「龍蛇集落、そのものだよ」

 省吾は言った。

「ただその小説が書かれたのは一九二〇年代で、パルプ雑誌ってのが人気があった時代だった。作者の名前はハワード・フィリップス・ラヴクラフト。結局、四十過ぎくらいで死んでしまった。でも、彼の作品はしばらくして、忘れられた。より正確にいえば『忘れさせられた』というべきかな」

「どういうことです?」

「インスマウスを舞台にした小説そのものは作家の創作だったけど、モデルになった街も、ダゴン……ここでは蛇権現と呼ばれている……もみんな『事実をもとにしていた』からだよ」

 御華子が沈黙していた。

「他にも『クトゥルフの呼び声』なんて小説もある。これは名前の通り、クトゥルフに関する真実を小説仕立てにしたものだ。ラヴクラフトはなにかたまたまそうした秘密に触れる機会があったのか、それともクトゥルフの発する精神波のようなものに感応したのかはいまだにわかってないらしいけどね」

「精神波……」

「ときおり、ちょっとした地殻変動でルルイエが浮上することがあるんだ。そういうときに、クトゥルフは無意識のうちに強力な精神派を発する。ラジオみたいに『たまたま周波数があってしまった者』は、そうした形でこの宇宙に関するおぞましい真実を知ってしまうんだ。やがてアメリカ政府の情報機関もクトゥルフがらみの案件は『真実』だと判断するようになった。世界中に存在するUMAなんかも、だいたいが神話存在の目撃例だと考えられている。さらにいえば、古代からのさまざまな宗教も、ひょっとしたらこの神々となにか関係している可能性すらある。たとえば前も言った気がするけど、ダゴンという神は、実際にかつて中東で信仰されていて聖書にも載っているんだ。でも、もしこんなことが世間にしれたら……」

「大パニック、でしょうね」

 御華子の顔が青ざめた。

「だから『ラヴクラフト文献』は封印された。ラヴクラフト以降にも、何人もの作家が『偶然』さまざまな旧支配者や神話存在の登場する怪奇小説を書いたけど、これらも全部発禁、回収されている。この秘密を知るのは世界でもごくごくわずかな人間だけだ。大国の一部の政治家や軍人、情報機関の人間、そして……」

 省吾は告げた。

「この龍蛇集落のように、実際にそうしたものを信仰しているものたち」

 御華子が固唾を呑んだ。

「風宮のいた集落も、そうした場所だった。あのときは『フェンリル』はまだ実戦には投入されていなかった。僕、というか『狩人』が一人でやったよ」

 あのときの記憶を思い出し、吐き気と歓喜が同時にやってきた。

「風宮を除いて、全員を殺した。たしかにそこはひどいところではあった。住民はみな昴神、ハスターの信者で遭難者や迷い込んできたものたちを、神への生贄にささげてきたんだから。でも、僕はそこで何人もの、まだ物心もついていないような子供たちも殺した……」

「それは、御子神さんが悪いんじゃありません」

 かすかに御華子が涙ぐんだように見えた。

「御子神さんだって、好きでやったわけじゃない。『狩人』がやったんです。けど『狩人』みたいな人格が生まれたのは、そうでもしいと精神がきっと耐えられなかったから……。政府の人たちが、神話存在を恐れるのはわかります。でも、だからって、御子神さんやショウコちゃんに、そんなひどいことをしていいわけがないんです。ある意味、『狩人』だって被害者ですよ」

 それはどうだろう、と思った。

 端的に言って、御子神は「狩人」を恐れ、そして憎んでいた。それはいわば自分の暗黒面の現れのように思えたのだ。

「とにかく、この集落にとどまり続けるのは危険だ」

 省吾は言った。

「逃げよう、御華子ちゃん。このままだと、人魚顔や人魚だけじゃなくて、自衛隊にも殺されかねない」

「でも……」

 ためらったように御華子が答えた。

「私は足手まといにしかなりません」

「構わない。もう、こんなのはたくさんだ。俺が必ず、君の命を守る。ただし……」

 我知らず省吾は顔を歪めた。

「頼むから、油断しないでくれ。いまの僕は御子神省吾としての要素が強い人格だが、いつ『狩人』が出てくるかわからない。そうなったら、すぐに逃げろ」

「わかりました。ただ、私からもお願いがあります」

 強い決意を宿した目で御華子が言った。

「私には、人魚の血が流れています。どうしようもないことですが、現実にそうなんでしょう。そして、私の血もさっきから騒いでいるんです。蛇権現様を、九頭龍権現様を裏切るのかって」

 省吾は絶句した。

 考えてみれば、それは十分にありうる話なのだ。

「だから、もしかしたら、私も決定的な場面で人魚の血に操られて、御子神さんを裏切って蛇権現や九頭龍権現が有利になるように、なにかしでかすしもしれないんです」

 ある意味では最悪の、笑えない状況だった。

 つまり二人とも、自分本来の意志とかかわりなく「自らの望まない行動」を取りかねないのだから。

 それでもやはり、危険は圧倒的に御華子のほうが大きいだろう。

 「狩人」が全面に出てくれば、邪魔だとばかりにいきなり殺すこともありうるのだから。

 いままで御華子を「狩人」がさして気にしていなかったのは、風宮や人魚など、それ以上に遥かに危険なものがいたのでそれどころではなかったためだ。

「御華子ちゃん、君の覚悟は……」

「最後まで、話、聞いてください」

 ひどく悲しそうな顔をして、御華子は笑った。

「私は、たとえ人魚の血をひいていても、自分は人間だと思っています。私はあんな、おぞましい怪物たちとは違うって。だから、もし、私が御子神さんを裏切るような真似をしたら……」

 御華子は聖女のような微笑を浮かべた。

「お願いですから、私のことを殺してください。まだ、私が人間でいるうちに」

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