5 黒衣の女

 なにやらうめき声のようなものがふすまの奥から聞こえてくる。

 一瞬、何事かと思ったがどうやら御子神が悪夢にでもうなされているらしい。

「あの……御子神さん? 御子神さん?」

 何度も呼びかけたが返事がない。

 しかしもう夕食の支度は出来ているのだ。

 しかたのないことだ、と自分に言い訳をしつつふすまをそっと開けた。

 暗くなった部屋のなかで、御子神が苦しげな声を漏らしている。

 電気をつけると、その美貌が歪められている姿があらわになった。

 こんな綺麗な男の人の苦しそうな顔を見ていると、なんだか胸がざわついていくる。

 だがいまは呑気に相手の顔に見入っている場合ではなかった。

「あの……御子神さんっ、夕ごはん、できましたよっ」

 しばらく肩をゆさぶると、ようやく御子神が目を覚ました。

 なにやらぶつぶつとつぶやいている。

 まだ寝ぼけているらしいが、こちらの顔をじっと見ているとようやく意識が覚醒したようだ。

「ああ……ええと、御華子ちゃんか」

「すみません、勝手に部屋のなかに入ってしまって。でも、夕食が……」

「そうか、もうそんな時間か。参ったな、つい寝入っちゃったみたいだ」

 左手で目をこすると、御子神が起き上がった。

「うちの民宿は、食事はみんなで食堂に集まってとることになっているんですが……その、実は、あれから新しいお客さんがいらっしゃったんです」

「へえ。どんな人?」

「それが……」

 しばし御華子は言葉に詰まった。

「若い女性なんですけど、なんていうか……ちょっと、怖い感じの人で」

「はあ」

 客の前で他の客の悪口を言うなど決して許されたことではないのだが、自然と口が動いていく。

「ものすごい無愛想で、目つきがこわいんです」

 美人ですけど、とはなんとなく言いたくなかった。

「まあ、いいや。とにかく、食堂に案内してもらえるかな」

 御子神に言われて、御華子は家のなかを歩き始めた。

 ふと、窓の外から視線を感じたのはそのときだ。

 また、なのだろうか。

 このところ「誰かに見られている」という感じがするのだ。

 初めのうちは気のせいかとも思ったが、ひょっとすると変質者でもいるのかもしれない。

 いわゆるストーカーかもしれないのだ。

 だが、自意識過剰すぎると笑われると怖いので、いままで人に話したことはなかった。

 こんな地味な自分にストーカー行為をするような物好きもいないだろう、と思っていたのだ。

「あのさ」

 御子神が声を低めた。

「気のせいかもしれないけど……いま、窓の外から誰かがこっち、見てなかった?」

 どきりとした。

「あの窓だと、敷地のなかだよね。誰か、従業員の人とかかな」

「ち、違います。うちは家族だけでやっていますし……」

「あれ、じゃあ、もしかしてまずいんじゃないの?」

 気のせいではないかもしれない。

 御子神も見たというのなら、本当に窓の外に誰かいた可能性が高まってくる。

 いままで謎の窓からの視線については、誰にも話したことはないのだ。

 今日、初対面の御子神がそんなことを知っているはずもない。

「御華子ちゃんはまだ若い女の子なんだから、用心したほうがいいよ」

「で、でも私なんて……地味だし」

「確かに派手ではないけど、僕には君は充分、可愛い女の子に見えるけど」

 ぽっと頬が熱くなった。

 だが御子神は、単に思ったことを言っただけといった表情だ。

 罪作りな男の人だ、と頭が痛くなった。

 こんな美男子にそんなことを言われたら、女はいろいろと誤解するかもしれない。

「ほら、いまはストーカーとか警察も一応、話は聞いてくれるはずだし」

 警察と聞いて、少し厭な気分になった。

「でも龍蛇の集落は、警察からも嫌われていますから」

「なんで?」

 恥を覚悟で言った。

「この集落は……犯罪者とかも多く出しているんです。福岡とか大阪みたいな都会に言った人たちがいろいろとやらかして……」

「でもそれとこれとは、関係ないでしょう。集落がみんな犯罪者なんてこと、ありえないし」

「けど、実際に龍蛇の人間というと『そういう目』で見られちゃうんですよ。ここには、駐在もいません」

「やっぱり、地域差別じゃないか」

 御子神は本気で怒っているようだが、彼は何もわかってないのだ、と御華子は思った。

 御華子には、周囲の人々がこの集落を嫌う理由が理解できる。

 単なる田舎の排他性とも異なる、どこか狂信的な「よそ者嫌い」があまりにも多すぎるのだ。

 原因は、むろんわかっている。

 蛇権現様の信仰だ。

 だが御華子じしん、蛇権現信仰では特別な役割を務める身なのだ。

 この矛盾には幼いころから苦しめられてきた。

 しかし、もちろん部外者である御子神に、こんなことをいう訳にはいかない。

 そんなことを考えているうちに、食堂にたどり着いた。

 といっても、ただの八畳間の和室に大きな卓を置いただけの部屋だ。

 お客さんがきたため、今日の夕食はかなり贅沢なものだった。

 カレイの煮つけやブリの刺身などは日常的な献立だが、今日はアンコウやアワビまである。

 おそらく母が御子神のために奮発したものとみて間違いなかった。

「おお……これはすごいごちそうですね」

 相好を崩しかけた御子神の顔が、ふいに一人の女性のほうに向けられた。

 座布団の上にきちんと正座をしているが、彼女は一言で言えば不気味な格好をしていた。

 黒いワンピース姿は、どう見ても葬式帰りのようにしか思えない。

 長い艶やかな黒髪のなかに、整った白面が浮かんでいるように見えるが、目つきが普通ではなかった。

 まるで親の仇を見るような目で、御子神のほうを凝視しているのだ。

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