4 幻肢痛
あるいは、このあたりの民間信仰で信じられている神で、よそ者にはあまりその名を言ってはいけないのかもしれない。
地方に行けば、意外とそうした風習がまだ日本にも残っていることを省吾は知っていた。
よそ者が下手にタブーを破れば、かなり面倒なことになったりもするのだ。
「蛇の権現と書いて、蛇権現っていうんです。神社もありますし、神主さんもいますけど……どうも普通の神道とはちょっと違うみたいです。神主さんも資格もってないらしいですし……」
一般に神職になるためには、大学の専門の学部に入り勉強をして、神社本庁の試験を通らなければならない。
試験といってもペーパーテストだけではなく、さまざまな実習を伴うものだ。
確かいまは、実習は京都の石清水八幡宮で行われているはずである。
とはいえ、祭神が権現となると、どうなのだろう。
日本は神社といっても、主祭神が神道の神でないことは珍しくない。
たとえば弁財天は仏教の天部に属する仏だが、堂々と神社で祀られていたりもする。
これは中世の神仏習合の名残だった。
かつては、神社と寺院がごっちゃになり、神は仏の現れの一つの姿、とされる本地垂迹思想が流行したのだ。
だが明治政府はこの古いしきたりを廃止し、廃仏毀釈を行った。つまり仏教や寺院を神道と切り離し、より格下の宗教にしたのである。
それで現在のように神社でも仏が祀られている、という奇妙なことが起きるようになってしまった。
だが、神社で祀られているものにはさらに奇怪な存在もいる。
権現は、その代表格だった。
そもそも権現とは、さきほどの本地垂迹説から生まれた存在だ。
日本人は仏教の諸尊と神道の神を融合させ、さらに独自の神とでもいうべきものを作ってしまったのである。
それが権現だ。
空海が高野山を開こうとする際に現れたとされる蔵王権現が有名だが、他にもさまざまな権現がかつては日本各地で祀られていた。
しかしやはり廃仏毀釈の際、こうした権現も「神道の神とは異なるもの」としてほとんどが祭神をもとの神道の神に改めている。
いまでは権現を祭神にしている神社は少ない。
ただこの龍蛇では、蛇権現という独自の権現がいまだに残っているようだ。
無資格の人間が神職を務めているのだから、もはや本来の神道とは相当、かけ離れたものなのだろう。
興味が湧いてきた。
「蛇権現って、ひょっとしたら龍蛇信仰とも関係しているのかもしれないね」
「どうでしょうか」
いささか御華子の顔がひきつっていた。
まるで、なにかを後悔しているようだ。
あるいは、いまの話は本当なら「よそ者」である自分にはしていけないものだったのかもしれない。
こうした閉鎖的な集落でなら、ありうることだ。
「蛇権現を祀っている神社か……ちょっと、お参りしたいんだけど」
「駄目ですっ!」
予想以上に強い口調で、御華子が叫んだ。
「あ、大声出して、すみません。でも、集落の人間いがい、神社には行ってはいけないことになっているんです……」
そういうこともあるのかもしれない。あやうくタブーにふれてしまうところだった。
「わかったよ。もう、蛇権現のことは忘れよう。なんか、変なこと聞いちゃってわるかったね」
「いえ、そんな……あの、私も、失礼します。どうぞ、ごゆっくり」
最後にきちんと挨拶するあたりはさすがに民宿の娘だった。
それからしばらくの間、省吾は畳の上に寝そべっていた。
蛇権現。
だごんげん。
初めて聞く名前のはずなのに、どういうわけか聞き覚えがある気がする。
ふいに、右腕がうずくような痛みが走った。
ありえない、と思わず自嘲の笑みを漏らす。
これは幻肢痛と呼ばれるものだ。
いま使っている義手は、当然ながら痛覚など覚えず、またその痛みが神経によって脳に伝達されるはずがない。
言うなればこれは「痛みの幻覚」なのだ。
ただ、右手を失ったのはかなり昔の話なのに、いまだに幻肢痛がでるのはかなり珍しいことかもしれなかった。
それとこの痛みが走るときは、どういうわけはいつも、こうした田舎での民間信仰などの話をしたときに決まっている。
確か前回は……。
ふと、違和感を覚えた。
以前、どこかに泊まったときに似たようなことがあったはずだったのだが、一体、どこだったろう。
まだ認知症には早いはずなのだが、どうしても思い出せない。
ときおり、こういうことがある。
事故の歳、頭も激しく打った。
どうやらそれが影響しているらしいのだ。
専門用語では、高次脳機能障害と呼ばれるらしい。
幸い、省吾の症状は軽かったが、人によっては幻覚を見たり、思考力が極端に落ちて、日常生活には支障をきたすということだ。
省吾の場合、その症状は「健忘」という形で現れていた。
いわゆる「ど忘れ」のようなものだが、ひどいときにはつい一時間前のことを忘れていたりもする。
事故のおかげで、すっかり人生が変ってしまった。
ただ、いまはその事故がどんなものだったのかから、思い出せない。
こうした記憶の欠落には、やはり簡単に慣れるものではない。
だが焦りは禁物だと知っていた。
いずれ時間がたてば、ふとしたことで記憶が蘇るのだ。
つい欠伸が漏れた。
今日は長い間、電車に揺られていたため疲れているらしい。
気がつくと、寝入っていた。
……洞窟のような場所に寝かされている。
何人もの、奇怪な格好をした人々に囲まれ、省吾は悲鳴をあげていた。
おどろおどろしい、呪文の詠唱のようなものが聞こえてくる。
いあ・あうたうる・しょごす・あむたうる・いあ・しょごす
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