第三章 死闘
1 ショゴス
ようやく、開放された。
思い切り空気を吸い込みたいところだが、あまりにも生臭い臭気で洞窟は満たされている。
いまいましい「御子神」という偽人格の殻を破り、「狩人」は嗤っていた。
御子神だったときの記憶は残っている。
一方、御子神はこの自分が活動していたときのことは忘れているのだ。
完全なる狂気を防ぐための措置だというが、自分はまともだと狩人は確信していた。
「ったく、くっせえ魚を狩るつもりが、昴神のババアまでご一緒とは都合がいい」
「な、なんつもりだ……貴様……」
神主さんと呼ばれている男が、うろたえていた。
「なんだ、その右腕は……貴様、ただの人間ではなく……よりにもよって……」
「ああ、そうだよ」
狩人はうなずいた。
「知ってるだろう。少なくとも知識では。こいつこそが、俺の右腕に埋め込まれた『ショゴス』だよ……かつて『古のもの』により生み出されたあらゆる地球上の生命の祖にして、主に反逆した怪物だ。こいつの意識は、『ある存在』を通じて俺と融合している……」
黒い触腕が冒涜的な虹色の蛍光色に輝いた。それを見た人間たちのなかには、泡を吹いているものもいる。
権一郎と御華子は、それでもまたなんとか正気を保っているようだった。これだけ厭わしいものを見て平気なのだから、生まれつき精神がタフに出来ているのだろう。
「はは……嘘……それにあらゆる生命の祖ってなに……」
御華子の問いに、狩人は答えた。
「言ったとおりさ。ある種の原始的な細菌類を除く地球上の生物は、すべてが『こいつから進化した』んだよ。別に無理して信じなくてもいいがな。ショゴスのなかには、生命の無限の可能性が詰まっている。ただ、普段のこいつらは特殊な催眠光線でコントロールしない限りは、俺に仕掛けられた術式を使って操るしかないが……」
それにしても面白くなってきた。
敵は蛇権現ことダゴンやさらに「上位の神」を信奉する教団であり、また昴神の司祭でもある女魔道士だ。
「ヤ、ヤツラヲ……」
何人もの「人魚顔」、狩人の知るところの「インスマウス面」をした者たちが近づいてきた。
彼らは「深きもの」と呼ばれ、世界各地の海辺に密かに棲息し、人間との忌むべき混血児をつくっているのだ。
「やかましいぞ、魚野郎っ」
ごうっ、という音とともに大気が鳴動した。
狩人が右手の触腕を振るった途端、ショゴスの体が鞭のようにしなやかに動き、何体もの深きものの体を無残に押しつぶしたのだ。
まるで至近距離からショットガンでもくらったかのように、「深きもの」の肉体はばらばらに砕け散った。
骨や脳漿や肉、そして血液といったものが洞窟の壁や地底湖の表面にぶちまけられる、重い雨が落ちるような音が鳴る。
深きものは「神話存在」のなかではもっとも下級で、弱いものだ。それでも通常の人間よりは遥かに強力なのだが、今回ばかりは相手が悪かったとしか言いようがない。
それは戦闘などではなかった。
どう見ても、一方的な虐殺だった。
狩人が右手から生え出したショゴスを繰り出すたびに、破裂音とともに深きものたちの体が砕けていくのだ。さすがに不利を悟ったらしく、何匹もの深きものたちが、水中に潜り始めた。
「ちっ……面倒くせえな」
いくら狩人、正確にいえば彼の腕代わりのショゴスの力が圧倒的すぎるとはいえ、水中はもともと深きものたちの住処である。
さすがに水のなかでは、狩人も苦戦を覚悟しなくてはならなかった。
だが、狩人もこのまま、深きものどもがおとなしくしているとは考えていない。
なにしろここは、彼らにとっての聖地なのだから。
聖地を穢したものに、奴らは間違いなく復讐を目論んでくるに違いない。
今度の敵は、深きものなどとは比べ物にならぬ、恐ろしいものになるだろう。
となると、当面の敵は、風宮ということになる。
「さすがに圧倒的な力ね」
額に輝く黄色い、三方向に伸びる触手を描いたような吐き気を催す「黄の印」のそばに、風宮も脂汗を浮かべていた。
「でも……お前は、すべてをその忌まわしいものに頼りすぎている」
「ショゴス」という名を、口に出したくないようだ。それほどまでにこの神話存在は人々に恐れられ、忌避されている。
あのおぞましい経典「アル・アジフ」を書いたアブドゥル・アルハズレッドすら、ショゴスの存在を否定していたのだ。
ちなみにアラビア語が原典のアル・アジフはギリシャ語に翻訳され「ネクロノミコン」、つまり死者の書とも呼ばれている。
さすがの狩人もアル・アジフやネクロノミコンの完全版を読んだことはなかった。それほどまでに貴重で、厳重に管理されているのだ。
だが、それも当然のことである。
そうした魔道書に書かれた秘密は人類の正気を奪うには充分すぎるものであり、ことと次第によっては人類そのものを破滅させることすら可能なのだから。
そこに記された禁断の知識には、人類が地上に誕生する遥か以前に、この惑星に無数の外宇宙からの知的種族が飛来したことも含まれている。
ショゴスを創造した「古のもの」もそうした種族の一つであるが、なかにはさらに強大な力をもつ者たちも存在した。
そうしたものたちは「旧支配者」と呼ばれている。
彼らの力はただの生物のそれを凌駕し、まさに神と呼ばれるにふさわしい力を持つのだ。
そして旧支配者が存在するのは、この地球だけではない。
太陽系近傍にも、数多くの旧支配者が棲息している。
彼らは自らを礼拝する眷属を従えている。
たとえばプレアデス星団の近く、ヒアデス星団にもそうした「神」の一柱がいた。
他ならぬ、昴神と風宮が呼んでいる神である。
この神は、ダゴンよりさらに力ある、地球の海底で微睡む神と犬猿の仲だとされていた。
旧支配者はさまざまな複雑な関係があり、対立していることも珍しくはないのだ。
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