9 オニイチャン
一体、これはなんなのだろう。
さんざん現実離れした経験をしてきたせいで、ついに頭がどうにかしてしまったのかもしれない。
ありえないのだ。
「御華子の見覚えのない幼女」がこんな時間、しかも裸で血まみれのまま、路地に立ち尽くしているなどということは。
大して大きな集落ではないうえ、少子高齢化も進んでいる。
龍蛇集落の子供ならば、すべて記憶しているのだ。
だが、いままで見たこともない顔だった。
ふと、その顔がどこか御子神に似ていることに気づいた。
あるいは「狩人」というべきか。
単なる偶然なのだろうか。
「オニイ……チャン……ドコ……」
ひどくぎこちない口調で、幼女は言った。
無感動な言葉を聞いているうちに、背筋に寒気を覚える。
なんだか彼女が「人の姿をしたこの世ならざるもの」に思えてきたのだ。
実際、すでに御華子はこの世界にそうした存在が実在していることを知ってしまったのだ。
激しい雨がしだいに幼女の体から、血を荒らしながらしていく。
傷口らしいものを探したが、見当たらない。
まさか、返り血だとでもいうのだろうか。
「おい、御華子……こいつ、普通じゃあないぞ」
権一郎が言った。
「こんなガキ、龍蛇にはいない。まさかこの夜中に外からきたってのもおかしな話だ」
まったくそのとおりなのである。
ふいに、ある馬鹿馬鹿しい考えが脳裏をよぎった。
御華子は実際に、御子神の義手を直接、見たことはなかった。
だがそれは質量保存の法則を嘲笑うかのように膨張し、巨大な触手と化したのだ。
あの触腕は、それから「狩人」の右手を離れ、どこかに行った。
あるいはあれは独自の意志を持つ怪物のようなもので、「狩人」という人間の体に一時的に寄生していたのかもしれない。
ふと、何年か前に見たアニメを思い出した。
昔の漫画を現代風に作りなおしたもので、主人公の高校生の少年の右腕に、奇怪な人を食う生物が寄生するというものだ。
ある意味、あの話と今回の状況は似ているのではないか。
そういえばあの生き物も、確か人間に擬態していた気がする。
まさか、と思う。
あるいはこの幼女は「狩人から分離した触手が、人の姿をとったものではないだろうか」。
自分でも妄想じみた考えだと思うが、そうでも考えないと彼女がここにいる合理的な理由が、他にどうしても思いつかないのである。
「権一兄ちゃん……この子、ひょっとしたら、あの触手みたいなのが化けているのかもしれない」
「ひっ」
権一郎が悲鳴じみた声をあげた。
「だったら……危ない。迂闊に近づいたら……」
もしそうだとしたら、極めて危険なのは事実である。
しかし、すでに距離的には、もし触手ならば姿を変えてこちらを叩き潰せる位置にいるのだ。
それなのに「オニイチャン」という言葉らしいものを発している。
「いたぞっ」
「こいつら、ただじゃすませねえぞっ」
「でも、権一郎はかまわんが御華子は殺すなよっ!」
ぞっとした。
ついに、追手においつかれたのだ。
もう逃げ場はない。
前にいけば正体不明の幼女がいる。
一方、後ろには人魚顔の者や深きものどもがいるのだ。
ここは万に一つの可能性に、賭けてみるしかなかった。
「ねえ、私たちの後ろにいる奴らをやっつけて! そうしたら、私たちがあなたにオニイチャンにあわせてあげるっ!」
「気でも狂ったか!」
権一郎が叫んだ。
無茶苦茶なことを言っているのは自分でもわかっている。
しかしもう、これぐらいしか手がないのだ。
この幼女があの触腕の怪物の化けたものだとしたら、どこまで人語を解するかわからない。
ましてや、こちらの味方をしてくれるとは限らないのだ。
それでも、試してみるしかないのである。
しばしの後、幼女がこくりとうなずいたかと思うと、いきなり人の姿が消えた。
あまりに高速で変形したために、御華子の視力では捉えきれなかったのだ。
太い紐のようになった肉塊が、圧倒的な力をもって深きものの体を叩き潰した。
ばん、という水風船を立たつけるような音が鳴る。真紅の血と生臭い液体があたりに飛散した。
「ひっ」
さすがにこれは人魚顔たちも予想外だったのだろう。彼らは算を乱して逃げようとしたが、触手は容赦なく、まるで蝿叩きで蝿を叩くように、次々と深きものどもや人魚顔の人間を潰していった。
何度も破裂音が鳴り響く。あまりにも超現実的な光景に、御華子の精神は凍りついた。おかしな笑みがもれる。人間は連続して自分の限界を超えた事態を目撃すると、最後には笑ってしまうのだと他人事のように思った。
そして、この惨劇を見て精神的に異常をきたしたのは、御華子だけではなかった。
「ははははははははははははっ」
権一郎は、不自然な大爆笑をしながら、いきなり人魚顔たちの死体がへばりついている路地にむかって駆け出していった。
突然のことに、触手が即座に反応する。
恐ろしい勢いで蛇の如くうねった触手は、一瞬にして権一郎の上半身を横合いから殴打した。
まるで散弾銃でもくらったかのように、権一郎を形作っていた肉や血液や脳や内臓がばらばらになり、民家の壁にべったりとはりついた。
遠い雷鳴を聞きながら、御華子は股間から太腿に熱いものが流れていくのを感じていた。
失禁したのだ。だが、羞恥心などなかった。そんな人間的な感情が沸き起こる状況ではなかった。
圧倒的な原初の、生物としての死への恐怖ががっちりと御華子の精神を強靭なあぎとで咥えていた。
「あ……あー……」
しばらくうまく言葉を発せなかった。一時的な失語症になったかのようだ。
黒いタール状の肉塊の表面は忌まわしい沼虫色に塗れ光っていたが、やがてあっという間に、幼女の姿をとった。
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