10 ショウコ

 さきほどは一度、血が洗い流されたがまた少女の体は鮮血に濡れている。

「オニイチャン……アイタイ……ツレテク……ヤクソク……」

 まだ体の震えがとまらない。

 だがこの幼女の姿をした怪物をなんとか制御しなければ、自分は殺されるだろう。

 さきほどの、権一郎のように。

「や、約束は……守るよ……」

 頭が麻痺したようになっている。

 落ち着け、考えろ。

 さもないと殺される。

「そのかわり……私を守って……もし、またさっきみたいな連中がくれば……」

「ワカッタ」

 幼女はこくりとうなずいた。

 彼女の正体は、いまだに謎のままだ。

 だが、と思う。

 ひょっとしたら狩人、もしくは御子神の、本物の妹なのではないだろうか。

 歳はかなり離れているが、可能性はある。

 この幼女の姿のほうが真の姿で、あのショゴスとかいう怪物めいたものは兄を守るために手を加えられたのかもしれなかった。

 もはや宇宙的な神々や魔術といったものの存在を、信じざるをえない。

 そうした邪法により、彼女が怪物に変えられ、普段は兄を守るために右腕に擬態しているということもありうるのだ。

 むろんこれはなんの根拠もない空想だ。

 しかし、案外、真実に近いのではないかという気がしてならなかった。

 だとしたら、彼女もまた被害者である。

 好きであんな怪物にさせられたわけでもないだろう。

「ドウシタノ?」

 不思議そうに幼女が言った。

「いえ、なんでも……」

「ナンデ、ナイテイルノ?」

 どきりとした。

 自分が涙を流していることにすら気づいていなかったのだ。

 今は情緒がひどく不安定になっている。

 眼前で兄のように慕ってた権一郎を殺されたというのもあるし、勝手にこの幼女に同情している、とも考えられた。

 自分でも、自分の心の動きがよくわからない。

 ただ一つだけ確かなのか、少なくともいま自分の前にいる女の子は、人が泣くという行為を理解している、ということだ。

「あなた……名前はないの?」

「ナマエ?」

 幼女はぽつりと言った。

「ショウコ」

 そういえば御子神の名前は「省吾」だったはずである。

 ただの偶然なのだろうか。

 それとも二人ともあえて名前を似せた、本物の兄妹なのか。

 ただ、彼女に対する見方が、御華子のなかで少し変った。

「そう……ショウコちゃんていうのね」

 ショウコと名乗った幼女は小さくうなずいた。

 むろん油断したり、あまり心を開いたりするのは危険だ。

 それでも彼女をただの怪物が擬態した姿と考えるよりは、むしろこちらのほうが本物とみなすほうが、精神的な負担は弱まる。

「じゃあ、いまからお兄ちゃんのところに行きましょう」

 まるで感情の動きをみせずに、再びショウコは首肯した。

 このまま、この集落から出るという方法もあるが、すでに周囲は包囲されていることも考えられる。

 だとしたら、死中に活を求めるしかない。

 これが勇気なのか、自棄なのかは我ながら判然としなかった。

 一歩間違えれば集落のものに捕まり、「神の妻」としておぞましい一生を送ることになる。

 それでも、逃げたくはなかった。

 少なくとも父は、ごくわずかな望みにすがりながらも、運命から逃げなかった。

 母は正気を失い、あの落とし子とかいう怪物の犠牲になったが、もし父がまだ生きていたら最後まで自分を守るために戦おうとしていたはずだ。

 そして健一郎も危険を冒し、集落を裏切ってまで自分を逃がそうとしてくれた。

 それを考えれば、逃げられない。

 いつのまにか自分はこんなに強くなったのだろう。

 もともとは目立たずに、おとなしく生きていくタイプだったのに。

 しかし、自分の故郷に秘められていたおぞましい秘密を知り、変わりつつあるのかもしれない。

 そもそもが「御華子」とは、生贄として捧げられるための存在なのだ。

 あまりにも人を馬鹿にしている。

 なるほど、神々を名乗るだけはあり、「彼ら」は人間など比べ物にならぬほど強大な存在ではあるのだろう。

 彼らからすれば、人間など塵芥にすぎないとも思える。

 それでも自分は人間だ。

 呪わしい「人魚」の血をひいているかもしれないが、それでも真島御華子という一人の「人間」なのだ。

 いま自分を心を支配している感情がなにか気づき、御華子は驚いた。

 あまりにも強烈な「怒り」である。

 もともと臆病で、あまり人と敵対することを好まず、おとなしくやりすごすというやり方を身に着けていたかつての自分とは、まるで別人だ。

 昔の真島御華子なら、このまま運命に流されて生きていただろう。

 だが、いまの己は違う。

 あまりにもふざけた、この理不尽な定めと戦って見せる。

 そのときだった。

 心の奥底から、いままで意識したこともないような、強烈な感覚がやってきたのは。

 一言でいえば、それは「畏怖」の念だった。


 うんぐるい・むぐるうなふ・くとぅるふ

 るるいえ・うがふなぐる・ふたぐん


 神主さんに教えられた祝詞が、勝手に心のなかで唱和される。

 それはわかりすく表現すれば「大いなるクトゥルフはやがてルルイエの都でのかりそめの眠りから目覚める」という意味なのだと、御華子に流れる「人魚の血」が知っていた。

 従え。大いなるダゴンに。

 従え。大いなるクトゥルフに。

 あまりにも強い、その誘惑をなんとか断ち切る。

 自らの血にも逆らえるはずだ。

 そう自分に言い聞かせると、御華子は傍らのショウコと一緒に、激しく風雨の吹きすさぶ夜の龍蛇集落の中心部にむかって歩き出した。

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