5 分離
もはや現実はほぼ御華子にとって意味のないものとなっていた。
「おおお……なんだよ……なんだよあれはよおおおおお……」
権一郎が呆然としている。
闇のむこうにいるものを直視してはならない。
あれは「この世にあってはならないもの」なのだから。
このままでは本当に頭が変になるが、どこかでそのほうが楽になると考えている自分がいた。
むしろ正気でいたら、もっと恐ろしい思いをするだろう。
周囲に立ち並ぶ古い家々はいつもと変わらないというのに、完全に御華子にとっての日常は破壊された。
空からきた怪物……風宮はビヤーキーとか言っていた……の死体らしきものの上を、人魚たちが飛び跳ねている。
そういえば、あれは正確には「深きもの」とかいうらしいが、そんなことはもうどうでもよかった。
ある意味、感情が麻痺している。
これだけ現実離れした出来事が連続してしまうと、心の機能は停止してしまうらしい。
そのときだった。
「う……うがあああっ」
さきほどまで触手で深きものたちを叩き潰していた狩人が、顔を歪めた。
「おい……なんだこれ……調子がおかしいぞ……」
見ると、あのおぞましい触腕が蠕動を始めている。
いままでも汚らしい玉虫色に光り輝いていたが、その明滅が明らかに激しくなっていた。まったくデタラメにあちこちに目が生じたり、口が消滅したりしている。
どうやら調子がおかしくなっているようだ。
「よりにもよって、こんなときにっ」
風宮が罵声を浴びせた。
「生臭い魚どもを皆殺しにするんじゃなかったの!」
どうやら、風宮も戦力として狩人をあてにしていたようだ。
その計算が狂おうとしているので、焦っているようにしか思えない。
もっとも、風宮がどこまで正気かは疑問だった。
彼女の行動はどこか先が読めない、支離滅裂なところがある。
次の瞬間、後先を考えずにこれが好機とばかりに狩人を殺すことすらありえた。
改めて、たちの悪い夢のなかの出来事のようだ。
ひどい非現実感があるから、まだ自分はまともでいられるのかもしれない。
すべてを他人事のように感じているから、理性を保てているのだ。
もっとも、実は自分もすでに頭がおかしくなっているのかもしれない。狂気に陥った人間に、自分が正気かなど判別できるはずもないのだから。
「あああ……あああああああああがあああ」
ひときわ大きな声を狩人が発した。
激しい雨のせいでよくわからないが、あるいは顔から汗を流しているかもしれない。
それほどの苦痛を味わっているように思えた。
そして、唐突に右手の触腕が、ぼとりと音をたてて地上に落ちた。
あまりのことに、御華子は呆然とした。
一体、なにが起きているのだろう。
落下した触手は、ほんの数瞬で大きな球体のようになると、ものすごい勢いで転がり始めた。
運悪く通り道にいた深きものの体が、あっという間にひしゃげていく。
そのまま肉のような球体は、嵐のなか、何処へともなく消えていった。
「な……なんなの……」
これは、風宮も想像もしていなかったらしい。
「う……」
やがて狩人が、顔をあげた。
「あれ……僕は……」
違う。
あれは狩人ではなく「御子神」だ。
「そうだ……僕は蛇権現に社に行って、そして……」
あわてたように周囲を見渡した。
「なにが……なにが起きたんだ? ここはどこだ?」
演技のようには見えなかった。
もっとも、いまは演技などしても御子神にとっては何の得もしないのだが。
「あら……『狩人』だったときの記憶はないのね。それにしても、右手につけていたショゴス、どこかいっちゃったわよ」
御子神が左手で右腕を確認した。
「義手を落としたのか?」
「なるほど……普段はあのショゴス、義手に擬態しているわけね」
「ショゴスってなんの話だ?」
風宮は肩をすくめた。
「これ以上、あんたと話しても意味がなさそうね。あのショゴスがないと、あんたという人格が出てくるのかしら」
「違う。人格ってなんのことだ。僕は御子神省吾で……」
「それはたぶん『つくられた人格』。あの狂犬みたいな『狩人』が、日常生活をおくるためにあんたはつくられたんでしょう。魔術か、もっと原始的な催眠術とかかは知らないけどね」
完全に御子神は混乱している。
「あんた、魔術は使える?」
「なに言っているんだ? そんなもの使えるわけが……」
その瞬間、御子神の顔色が変った。
「あんた、そういえば何者なんだ! あの人魚たちを、おかしな術で……」
「そう、あれが魔術よ。私は昴神様の司祭であり、呪力や呪文をいくつもわけあたえて頂いているの」
「そんな馬鹿なことが……」
「でも、実際、風宮さん、すごい呪文みたいなの使ってましたよ」
自分の言葉がひどく遠く御華子には感じられる。
「それに、御子神さんも……右手に気持ち悪い触手みたいなの生やして……」
あれを思い出しただけで吐きそうになった。
「御華子ちゃん、いまはそんな冗談を言っている場合じゃない」
「わかってます。冗談なんかじゃないんです。御子神さんは、たぶん本当に多重人格だと思いますよ。『狩人』っていう別の人格が、あの気味悪い触手使って、深きものたちと戦っていました」
「深きもの……」
途端に左手で御子神は頭を抑えた。
「くそっ……頭が痛い……」
「まったく、いまのこいつを殺しても、ちっともすっきりしないわ」
風宮が言った。
「『狩人』が表にでているときに、なぶり殺しにしないと。でも、あのショゴスはなんなの? 人間とショゴスをつなげるなんて呪法、聞いたこともない」
「やめてくれ……僕は本当になにも知らないんだ……」
「そうみたいね」
風宮が険しい顔をした。
「それに、いまはそんなことを話している場合でもないみたい」
ゆっくりと、慎重な足取りで深きものたちや人魚顔の人間たちが近づいてくる。
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