マタニティライフ
3103
第1話0か月(親はあっても親知らず)-1
その日の俺は酔っていたのかも知れない。いや、たぶん酔っていた。いいや、かなり酔っていた。……そのせいだと思いたい……。
前日に妻の
高校の国語の教師になって早十年。
結婚してからも十年。
性格は真面目な方だと思う。
顔もイケメンとまでは言わないまでも、決して悪くはないと思うし、学校での評判もそこそこ。
病気もほとんどしない健康優良児だ。
昨日はケンカしたけど、夫婦仲も良い方だ(と、思いたい)。
そんな俺の唯一の不満が、子供がいない事だった。
「多田先生!飲んでますかぁ?」
その日は結婚したばかりの後輩に子供が出来たというので、お祝いがてらの飲み会だった。
その事がうらやましくてうらやましくて……。
気持ちがモヤモヤして飲まずにはいられなかったのだ。
「ところで先輩、幼稚園の先生になりたかったって、ホントですか?」
どこから聞いたのだろうか?実は俺は幼稚園の先生になる予定だったのだ。それくらい子供が好きなのだった。
「なれるもんなら、なりたかったよ……」
「じゃあ、なんで……」
俺はなみなみとビールを注がれたグラスを一気に空けた。
「……ってるか?」
「はい?」
「知ってるか?!幼稚園の先生になる為にはなぁ、ピアノが弾けなきゃいけないんだよ!必須なんだよ!必須!なのに、どうしても弾けなかったんだよぉ……」
その後の記憶はあまりない。とにかく飲みに飲んだ事だけは覚えている。かろうじて家に辿り着いた時には午前様だった。
「おかえり」
出迎えた静流の視線は、差し出されたコップの水のように冷たかった。
「……ごめんなさい」
口からついて出た言葉は何ともばつの悪い言葉だった。
「
そう言って静流はリビングに消えていった。
(怖っ!)
何の話だろう?午前様になった事を怒っているのは当然だとして、他に思い当たる事といえば昨日のケンカくらいだが。
けれども夫婦関係というのは、小さな不満が知らない間に積もり積もって一気に爆発して離婚になったりするとも言われているし……。
ただでさえ姉さん女房で尻に敷かれてる感じが否めないのに……。
(怖すぎる!)
今の自分には、このリビングの扉を容易く開ける事なんて出来るはずがない。扉の前でおろおろしてばかりだった。
「理くん?」
俺の気持ちを見透かされたようにリビングの扉が開けられた。
「……何……?話って……?」
俺はそう聞くのがやっとだった。
「とりあえず、座ったら?」
うながされるままダイニングの椅子に座ろうとすると、
「こっちに来て座ったら?」
と、静流がソファに座って手まねきしていた。
(逃げられない!)
そう直感した俺は覚悟を決めて静流の隣に腰を下ろした。恐る恐る静流の顔色を窺うように覗き込んだ。
「去年……」
(去年ってずいぶん前の事で怒ってる?何かしたっけ?去年の今頃は……。)
頭の中を記憶が駆け巡る。だが何も思い当たる節が無い。
「去年ウチの大学病院で
(抜いたけど、何かしたっけ?)
何もかもが悪い方向にしか考えられなくなっていった。
「……親不知抜いた時、俺、何かしたっけ?」
恐る恐る聞いてみたが、静流はきょとんとしていた。
「理くん、何かしたの?」
静流の返事は拍子抜けするものだった。
「何かしたから怒ってるんじゃないの?」
「何で私が怒ってるのよ~?」
静流は急に今までの真剣な顔つきとは打って変わって無邪気な笑顔になった。
「そうねぇ。あえて言うなら私が怒ってるんじゃなくて、理くんが怒るかもしれない話なんだけどなぁ」
「え、そうなの?」
怒られるとばかり思っていた俺は、ほっとして言わなくてもいい事をつい言ってしまった。
「何があったのか知らないけど、俺は何があっても怒ったりしないよ。静流の為なら何だってするし、何だって我慢出来る。あ、『離婚して』ってのはナシだよ?!あと、『浮気の容認』とかもナシ!それ以外ならなんだって大丈夫!」
「本当?」
「本当!」
「本当に?」
「本当に、本当だって!ホント、ホント!」
気が付けば『本当』の大安売りになっていた。
「あ~良かった~!絶対に怒られて断られると思ってたから~」
静流は安堵の笑みを浮かべていた。
その時にちょっと、いや、かなり自分の言った言葉を後悔しはじめた。
(嫌な予感が……)
「実はウチの教授がね~」
(ああ、やっぱり……)
静流は大学病院に勤めていて、とても権威がある教授の助手をしているのだった。
だが、その教授はとても偉い方なのだが、少々マッドサイエンティストなところがあった。その教授の名前が話に出ると、皆が身構えてしまう程の数々の伝説があるという……。
「理くんが親不知抜いたのって、ウチの教授の勧めだったでしょう?あれね、理くんの親不知を使って実験したかったからだったんだって!」
「え?」
「でね、その実験で、それが物凄い事に使えるって事がわかってね!」
「ええ?!」
「教授が理くんにぜひとも治験に参加して欲しいんだって!」
「えええぇぇ?!」
ここに来て「No!」と言える訳がない。
「じゃあ、明日、あ、もう今日か。学校が終わったら教授の部屋に来てね。受付には言っておくから。顔パスで入れるようにしておくからね」
静流はそう言って、鼻歌交じりにご機嫌で寝室に消えていってしまった。
一方で俺は、まだまだこれから自分に起きる人生最大の試練の事なんか理解出来ずにいた。酔いが醒めぬまま、とりあえず急いでシャワーを浴び、今日も授業があるので少しでも長く眠りたいと思い、床に就くのだった。
目が覚めると、いつもは大概用意されていない朝食と置手紙がテーブルの上にあった。
一足先に出勤したらしい。
(待ってるね♡)
ハート付きの置手紙が不安を煽った。
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