アイちゃんのいる教室を読んで

「アイちゃんのいる教室」という本がある。2冊出ている。

普通級に通うアイちゃんというダウン症の女の子がクラスの中で色々頑張ったり、みんなが話し合ったり、どうすればいいだろうと考えたりする様子が描かれた、本でもあり写真集でもある、そんな本である。


アイちゃんが一生懸命でとても可愛い。写真を見ているだけで、幸せな気分になる。


でも、僕はこんなことも考えてしまう。


確かに、アイちゃんがいることで、友達は得がたい経験をしたし、得がたいことを学んだと思う。しかしその分、普通ならできたことをするための時間が得られなかったということはないだろうか。


時間は有限だ。大人にとっても、子供にとっても。

子供からみると時間は無限のように感じる時期はあるだろうが、現実的に有限であり、その人はその人が歩んだ人生の範囲でしか世界を知ることができない。


アイちゃんのような、他と違う友達と接することは得がたい経験で、そのことによって世界や人生が広がったであろうことは間違いない。

しかし、何かを経験したということは、できるかもしれなかった別の何かを経験できなかったということでもある。


僕の息子は保育園に通っている。まあ、それなりに、色々やらかしたりしつつも、なんとかやれているように、僕からは見える。でもそれは、友達や先生方の多大な支援があってのことだろうなとも想像している。


想像と書いたのは、園でのことを全部は知ることはないし、親に知らされていないことも沢山やらかしているのだろうなと、これまた想像してしまうからだ。


そしてやはり考えてしまう。


もし息子のためにかける手間・時間・コストがなかったら、友達や先生は別のことを経験できたのではなかろうか、と。


世の中色々な子供がいるのはどこの保育園でも普遍的なことなので、この子がいたら、あるいはいなかったらどうだっただろうかなんてのは、全体の関係性をフルメッシュで考えたとしたら考えるだけ意味のないことだというのは理解できる。


だけどな、とも考えてしまう。


どちらが自分の本心なのか、僕はいまだに分からない。


ただ確実に言えるのは、ここで「うちの子がいるせいでねぇ……ごめんなさいね」的なことを言うのはニュートラルな視点からも間違っているし、相手に対しても失礼というかみくびっている感ががあるので、僕が言えるのはものすごくシンプルで小さなことで、それは「うちの息子と接してくれてありがとう」というその一点に絞られる。


そこが「ごめんなさい」ではなくて「ありがとう」であるべきだということだけは、日々迷走している僕でも分かる。


だけどやはり、と繰り返しになる。


それはいつまで成立できるのだろうかという、あやふやなバランスの中で、僕等は生きているような気がするのだ。


そしてそのバランスは、とても際どいもののような感じがしてならない。

この感覚は、臆病に過ぎるだろうか?


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