感動ポルノというパワーワード

感動ポルノという単語が、このところ話題を集めている。もともとは、アメリカのジャーナリスト兼コメディアンである、ステラ・ヤング氏による問題提起に発する言葉だ。彼女が使ったのは「Inspiration porn」という表現を使ったが、日本語に訳される時に「感動ポルノ」という表現になった。

ステラ・ヤング氏の発言のひとつは、以下の記事で読める。

http://logmi.jp/34434


「感動ポルノってどうなの?」というテーマで、NHKのバリバラが特集を組んだのだが、その時間がまんま民法の24時間テレビにぶつけられていて、先日話題になった。24時間テレビが毎回やっている、障害がある人がこんなに頑張っていますというコーナーが、まさに感動ポルノではないかという批判が暗にこめられているということだ。


多分、こめられているんだけど。


それとは全然関係ないところで、「感動ポルノという単語の適用範囲がひろがっているのではないか」という問題提起を見た。それを見た時点で、そういう状況は僕の認識の範囲にはなかったのだが、どうなのかと思いtogetterなどを調べてみた。


もし、感動ポルノという単語の適用範囲が故意に、かつ不適切に拡大解釈され、それが表現活動に対する圧力になる可能性があるのだとしたら、本末転倒だと思ったからだ。


togetterやgoogle検索で調べた最初のほうで観測された内容としては、感動ポルノに否定的な意見と同時に、「組体操って、まさに感動ポルノだよね」みたいな意見があった。頑張っている姿を見る側が都合よく感動していることに対する批判であると受け止めた。


確かに元の単語である"Inspiration Porn"という言葉には、受け取る側が都合よく感動しているという意味合いが読み取れる。そういう意味では、組体操はInspiration Pornなのかもしれない。


ただ、ね。


なるほど、と思ってしまったのだ。


ああ、分かった。

根本的に理解されていないことが、分かった。


元々の感動ポルノが対象していたのは「障害者が頑張っている姿」だ。


障害者が頑張る、あるいは近親者が頑張る、と言った時の「頑張る」というのは、組み体操を頑張るとかマラソンを頑張るとかいうのとは、まったく異質のものなのだ。

異質なものであるということが、理解されていない。


異質なのだ。そういう頑張るとは、全然違うものなのだ。

だから、組み体操は感動ポルノになりえない。


この言葉を難しくしているのが、異質の境界の場所であると思う。

発達障害や自閉症スペクトラムが知られるようになり、従来はとろい人、不器用な人、要領が悪い人、変な人、奇人、などという扱いを受けていたひとが、実はなにかしらの障害が原因であるという認識が広がっている。

そして、その中には生きにくさを抱えつつなんとかやっている人もいれば、なんとかやることすらギリギリのラインで持ちこたえている人もいる。


また発達障害も自閉症スペクトラムも、程度の幅や特性の種類が広く、人によって大変さというのは全然違う。


こういった人が頑張って世の中と折り合いをつけている姿は感動的であり賞賛すべきことで、折り合いをつけてない人、頑張れていない人は感動的でないとか、そういう話なのか?


あるいは、どういう人がどこまで頑張っていれば感動の対象になるのか?


普通の頑張りと、異質な頑張りとの境界はどこなのか?


そんな線引きは本当に存在するのか?


この線引きの難しさが、この問題をややこしくしている原因のひとつにある。


当人達や近親者からすると、自分たちの頑張りと組体操やマラソンの頑張りとは、まったく別のものだという意識がある。少なくとも、僕はある。


同時に、障害の境界が不明確(もちろん、制度としての障害者手帳というものはあるあ)ということも知識としてあるため、自分たちの頑張りは別物なのだと強く主張することもできない。少なくとも、僕はできない。


ジレンマを抱えつつ、「こういうのも含みながら生きていくのだろうなあ」という、ある種の諦観もあり、しかし同時にそんな諦観を前提とした社会でいいのだろうかという疑問もある。

そんな諦観を持たなくてもよい社会にしようねってのがコンセンサスとして存在するから、みんな色々な活動を頑張っている。あるいは、それをコンセンサスとして成立させるために頑張っている。


更に加えて、僕が本稿で「論」という位置づけで何も語れないのは、そもそもとして「頑張る」ということについて、どのような考え方をすればよいのか、このところ分からなくなっているからという、個人的な事情もある。


さて。


元々の懸念であった「感動ポルノというパワーワードによって表現者に不適切な圧力がかからないか」という点について、ここで考えてみたい。


・感動ポルノであるといういちゃもんが発生する可能性はある。ただし、多くの場合、いちゃもんをつけるほうも、つけられるほうも、元の意味での感動ポルノの意味するとことは理解していない。

・理解しているのは、元の意味での当事者とその周辺のみである。

・ただし、当事者とその周辺、この文脈では障害者とそうでない人の線引きを明確にすることは非常に困難である。


結論:どう転んでも、本質を外れたいちゃもんのつけあいになるだろう。


だけどね、感動ポルノというパワーのある単語を作ることで、問題を表舞台に引き出したことは、一番の功績だと思うよ。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る