五歳になった息子
注: いきなり飛んで申し訳ない。本来なら時系列順に記述するべきなのだが、どうしても「現在」の印象が毎日アップデートされ、その日その日の出来事や驚きが頭の中を占める。これを誰かに語りたくてしかたがない僕の気持ちも分かってもらえるのではないだろうか。
さて、五歳。
五歳というのは、実は僕達には少し特別な年齢だった。
息子を連れてはじめて「こども発達支援センター」に行った時のこと。息子は生後半年だったと思う。
玄関ホールで、ダウン症の男の子とそのお母さんと遭遇した。
お母さんは僕等に「あら……トリソミーの……?」と聞いてきた。
僕等は「はい」と答えた。
ダウン症の男の子は息子を見て「かわいい」と言った。
男の子の年齢をお母さんに聞いたら、五歳とのことだった。
その後も、ダウン症の子供とその親と、多くの人との出会いがあるのだが、この時の最初の出会いは僕の中に強く印象として残っている。
まず、「トリソミー」という表現は聞き方としてうまい表現だなと思ったこと。
直截的に「ダウン症ですか?」というのはどうにも聞きづらいが、「21トリソミーですか?」なら、通じる人にしか通じない。
ちなみに駅の中で「おや、おたくも天使ちゃんですか?」と聞かれたこともあって、その時はちょっとびっくりしたが、いずれにせよにこやかに優しい表情で聞くものだなとは思った。
もうひとつが「なるほど、五歳になると、赤ちゃんをみて可愛いと言えるくらいにはなるのだな」ということで、これをひとつの目標というか目安に考えておくとよいのかなと思ったことだ。
僕等の中で、五年後の息子の姿の具体的な可能性のひとつが出現した出来事だった。
さて、息子は五歳になった。
おむつはまだ外れていない。もっとも、定期的にトイレに誘うとトイレで用足しができるので、ちょっとの訓練で外れそうな気はするのだが、4歳のときにちょっとトイレトレーニングがこじれたこともあって、まあのんびりでいいかと考えている。
食事は普通にする。家だと好き嫌いが激しいが、保育園の給食はそれなりに食べているらしいので、まあ栄養の偏りはトータルして心配することはないだろう。
やんちゃである。体を動かすのが好きらしい。ボールを蹴ったり、かけっこをするのが保育園では好きなようだ。少し前に児童館のグラウンドでふたりでサッカーの真似事をしたのだが、わりと器用にドリブルの真似事ができていて驚いた。
保育園では、仲良しの女の子が何人かいる。優しくてお世話好きの女の子だ。だけど、お世話されることが当たり前と思い込むとよろしくないので、女の子たちには「ありがとうね。でも、この子なりにできることもあるので、こまっているようだったら助けてあげてね」と言っている。
アンパンマンが好き。ドラえもんが好き。機関車トーマスが好き。妖怪ウォッチが好き(玩具とか全然持ってないけど)。しまじろうが好き。
お父さんが好き。お母さんが好き。三人一緒で何かするのが好き。
ゆかりご飯が好き。納豆が好き。最近肉の美味しさに目覚めた。麺類が好き。うどんもスパゲッティもラーメンも食べる。
息子が生まれた時、小学生くらいになったら「お母さんに内緒でラーメン食べに行こうか」なんてことができるかなと思ったけど、先日一緒にラーメン食べてきて、はやくも目標達成。
ダウン症なので筋力は弱いけれど、基本的に手先も器用だし、体の使い方が器用。
最近になってようやく僕は、この子から多少目を離しても大丈夫かなという精神状態を作れるようになった。僕のほうが育児ノイローゼなのかもしれない。
多分この子は、それなりに強く生きていく力を持っているのだろう。
さて、問題の言葉についてだ。
結論から書くと、言葉は遅い。文章は喋れない。最大で二語文か三語文くらいだろうか。
話せる単語は少しずつ増えているものの、「可愛い」はまだ言えないな。そのかわり、赤ちゃんを見つけるとものすごい笑顔で近づいていって、よしよしと撫でようとしたり顔を覗き込んだりする。ついでに「ほら、お父さんもヨシヨシしてごらん」的な身振りをする。いや、さすがにはじめて会う赤ちゃんをいきなり撫でたら向こうの親がびっくりするので、お父さんはいいです。
五歳で「可愛い」を言えるかな、という目標は達成できなかった。
というくらい、ダウン症児の発達は個人ごとにバラバラで、単純に度合いというだけではなく、これはできるけれどこれはできないといった差も出る。
息子に関して言えば、こちらが話すことは、ほぼ理解している。
また、彼はジェスチャーを多用して(このジェスチャーについても、色々語るべきことがあるのだが、別稿にて)、実質相当長い文章を発信できる。
だから、家庭の中での日常の意思疎通ではそれほど不便がない。
不思議なものだとは、自分たちでも思うけれど。
だから、もしこのまま言葉が他のダウン症のひとと比較しても遅れるようであっても、家族の中では困らないし、それはそれでいいのかなと思ったりすることもあった(もっともこれについては妻は反対している。成人したら家をでるべきだと)。
保育園から、七夕用の短冊の用紙を渡された。願い事を書いて、それを教室の前の笹の枝に吊るすのだ。
4歳、5歳のクラスでは、健常児であってもせいぜいひらがなを一部書ける子供がいる程度なので、大抵は親が書くだろう。
妻が息子に「そうねえ、お友達と仲良くしたいでいい?」と聞いた。
息子は、口を動かして「あいうえお」と発語した。
妻が「もしかして、お友達とお喋りできるようになりたいの?」と聞いた。
息子は「うん」と頷いた。
そうだよな、お喋りしたいよな。
前述のように、保育園の友達は息子ととても仲良くしてくれている。言葉で伝えられないことも「先生、○○君が、こんなこと言ってるよ」といったように通訳してくれることもあるらしい。なんとなく息子の気持ちが分かるらしい。
とてもありがたいことで、息子もこれでいいやと思っていたりしないかなと心配はしていた。
でもそうか、やっぱりお喋りしたいか。
そうだよな、お喋りしたいよな。みんなと同じようにお喋りして、みんなが話しかけてくれるように、話したいよな。
この件以来、僕は言語聴覚士の人が読む教科書や、失語症の事例などの本を読むようにしている。それで何ができるわけではないかもしれないが、もう少しきちんとこの子の中で「言葉」というものがどういう存在になっているのかを理解したいと思ったからだ。
息子が自由に喋れるようになった時、お友達に伝えたい言葉はなんだろう。
「好き」かもしれないし「ありがとう」かもしれない。
勝手な思い込みだろうとは知りつつも、きっとこの子は素敵で前向きな言葉を、みんなに届けてくれるんじゃないかという気がする。
きっと、僕と妻のふたりにも。
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