もう少し続く、出産までのこと

妻が妊娠七ヶ月の、三月の第一週のことだった。


それ以前から、羊水過多で安静にしているように言われていたのだが、その日はどうにも様子がおかしい。お腹が痛いだったか何だか細かなことは忘れてしまったが、夜になって妻が病院に行く準備をし始めたので、同行した。大学病院の産科からは、何かあったらいつでも来いと言われていた。


診察室に通され、寝かされ、何やら検査が始まった。僕は待合室に追い出された。一時間近くが経過し、室内に呼ばれて説明を受けた。


ほぼ、陣痛が始まっているのと同じ状態だという。

切迫早産というものらしく、今は薬を点滴でいれることで、陣痛を遅らせているらしい。


この時点で、胎児の体重は1200gくらいだったと思う。超未熟児にも達していない。

先生はこう言った。


「早産にならないように、少しでも出産を遅らせる必要があります。そして胎児をなるべく大きくするようにします。まずは、1500gを目標に。次は2000g。次に2500g。2500gあれば、通常の未熟児になります。最低でも2000gまでいけば、出産後の手術にも耐えられるでしょう」


そう、この子は十二指腸閉鎖という先天性異常を持っており、産まれてすぐに手術を受けることが予定されていた。産まれても小さすぎると手術に耐えられないし、そもそも小さすぎて手術ができない。


だから、今産まれてきてもらっては困る。


妻はそのまま入院になり、僕は荷物をとりに家に帰った。


それからの一週間、仕事帰りに妻の病室に寄り、面会時間終了の20時に病院を離れるという生活を続けた。周産期医療については有名な病院だったこともあり、病室はほぼ個室(ドアはないので完全な個室ではない)でゆったりとしたスペースがとられていた。


一週間が過ぎた。


2011年3月11日、金曜日である。


妻はその日、最初の羊水除去の処置を受けていた。羊水除去とは、大きくなったお腹に針=ストローを差して羊水を抜く処置だ。午後の早い時間に予定されていた。


そして、14時46分。東日本大地震発生。


地震が起こった時、僕は会社にいた。会社の中にいる限り、それほど大きな被害があるわけではなかった。

ネットワークも生きていたし、身の回りのライフラインにはそれほど影響がないように思えた。


ただ、少しずつ情報が入ってくるにつれ、ただの大き目の地震でないことが分かってきた。なにより、東京都内でも電車が止まっていて帰宅できない。


この日、妻とどのくらいの連絡をとったのか、よく覚えていない。無事だというのは、どこかの時点で確認したはずだ。いずれにせよ、入院しているのだからむしろ安全だろうと考えていたと思う。


僕はと言えば、17時頃に会社を出て、自宅に向かって歩き始めた。同じ方向に街道を歩く人が沢山いて、しかもみんな黙々と歩いていた。黙々と、それでも整然と歩いていて、すごいことだと思った。


道中twitterをチェックしながら随時情報が入ってくるのを見て、これまたすごいことだと思った。


あの道のりを歩きながら考えていたことは、「これはすごいことだ。これはすごいことだ。すごいことが起こっている。これはなんだ。日本はなんだ。日本人はなんだ。すごい、なんだこれは、すごい」といったことで、それは被災地から離れた東京で同じような体験をしたひとが共通して受け止めてしまった「衝撃」なのだろう。


帰宅したところ、リビングのタンスが倒れていた。リビングのタンスが倒れた場所は、丁度自宅安静にしていた妻が横になっていたクッションがある場所だった。もし妻が家にいたら、タンスの直撃を受けていたかもしれない。普通に考えれば地震と同時に安全な場所に逃げるだろうが、何せ亀よりも動きののろい妻のことだ、そのまま呆然としてクッションに寝たままだったかもしれない。そしてその上にタンスが襲いかかっていたかもしれない。


その後、僕は自分の実家と妻の実家に電話をした。ふたりとも無事だけれど、マンションのタンスは倒れていたことなどを伝えた。


「お義父さん、タンスがね、倒れたんですよ。しかもね、その場所に普段奥さんが横になっていたんですよ。だけど、入院しているから、助かったんですよ。子供がね、入院しろって言ったんですよ、きっと。あの子がね、きっと救ってくれたんですよ!」


そんなことを熱く語った。


僕はきっと、熱に冒されていた。


3.11の衝撃という熱に、この日からずっと、僕は冒されてしまった。


当時の東京の様子を覚えている人は分かると思うが、もの不足や、計画停電など、生活に影響はあったものの、電車が復旧してしまえば会社には行けた。それでも原発の状況はめまぐるしく変化し、都内でも危険であるという意識がずっと離れなかった。東京がいつ放射線の被害に襲われるか分からない一方で、仕事や生活は少しずつ日常になっていく。それでもコンビニやスーパーを覗けば品不足は目に見えた形で「非常事態」という言葉を連想させた。


病院へのお見舞いは、確かしばらく自粛要請があったはずだが、一週間もたたないうちにお見舞いできるようになったはずだ。


僕は再び、会社の帰りに病院に寄る生活を始めた。


妻は何度も羊水除去の処置を受け(これが彼女にとっては人生の中で一番の苦痛だったそうだ)、その甲斐あってか胎児はどんどん成長していった。


3月の終わり頃になって、羊水検査の結果が出た。羊水除去の処置で抜いた羊水を使って胎児の異常の確定診断を得ようというものだった。


胎児はダウン症であると言われた。


この時の僕の正直な感想は、あ、そうですか、という程度のものだった。


十二指腸閉鎖の先天性異常に納得してしまった時点で、ダウン症のことも、別にどうでもいいやという気持ちになっていた。


とはいえ、確定した以上は動かなければならない。


僕は新宿の大きな本屋に行った。ブックファーストと紀伊國屋と、あとどこに行っただろうか。そこでダウン症に関する本を、なんでもいいからとりあえず買ってみた。


僕が新しい課題について調べようとするときは、だいたい似たようなアプローチをとる。まず大きな書店に行く。課題に関する書籍が集まっているコーナーを探す。大抵、棚ひとつくらいに、ひとつのテーマがまとまっている。


僕はその中から、一番薄い本と一番厚い本を取り出す。両方を読めば、そのテーマの入口と、出口(大抵出口はなく、高い壁があるだけだが)がわかる。


多くの場合は、簡単なほうから3番目くらいの本と、難しいほうから3番目くらいの本を買う。両方をがっつりと理解すれば、大抵のことは身につく。もっとも、簡単なほうから3番目を買うようになったのは、30代後半以降のことで、それ以前は難しい本をとにかくがっつり読むという方法をとっていた。


今回もそんなアプローチを予定していたのだが、本屋に行ってみると、ダウン症に関する本が非常に少ないことが分かった。せいぜい3冊くらい、だっただろうか。


ここが、記憶が微妙なところで、当時はそれくらい書店で在庫がある本が少なかったのか、調べ方が悪かったのか、よく覚えていないのだが、とにかく情報がないなと思ったことは強烈に覚えている。

同じことは、ネットを調べても感じた。

同時は、ダウン症の子供を育てる親のブログなんて、ほとんどなかった。国内で2件とか3件とか、その程度の数だったと思う。

また、丁度JDS(日本ダウン症協会)に組織変更されるタイミングだったこともあり、その前身であるJDSNとJDSSが、20世紀なホームページを掲げていて、なんじゃこりゃと思った。


情報収集をしながら、一ヶ月近くを過ごしていった。


4月下旬になり、妻は退院することになった。妊娠36週を越えて臨月になり、胎児の体重も2000gを越えた。安静にしていれば帰宅しても大丈夫という医師の判断があった。


妻は2ヶ月ぶりに自宅に戻ってきた。僕は、地震でここが倒れたとか、ここがひっくり返ったとかいう説明を熱心にした。僕と妻の両親がみんな集まってくれたりもした。この時期、僕等は何を考えて、何をしていただろう。


僕個人についていえば、子供が産まれる予定日の二週間程度前から有休をとり、その後育児休業に入ることを決めていた(もちろん会社の根回し、というか承諾は得ている)。それに向けての引き継ぎとか、残作業などをしていたと思う。


そうこうしているうちに5月半ばになった。


胎児は順調ではあるものの、十二指腸が塞がっているのがなおったわけではないので、羊水はどんどん増え、お腹はどんどん大きくなる。

予定日直前になり、これは耐えられないだろうということになり、再度病院に行ったところ、もう一度羊水除去を受けるかどうかと聞かれた。

この羊水除去というのが非常につらい処置らしく、妻はそれは嫌だといい、結局入院してお産を進めることになった。このあたり、誰が何をいってどう判断したかなどを細かく書くと色々と面倒なことは理解しているし、実際どうだったのか記憶が定かでないので詳細は省く。


そしてどうなったかと言うと、僕は病室で走っていた。その場でジョギング?助産師さんのアドバイスで、身体を動かしたほうがいいと言われ、妻がその場でジョギングをしていたので、隣でジョギングをしていた。


なぜ僕まで走っていたのか、今になると理解できない。一緒に走らなきゃ、と思ったんだろうな。多分そうだ。走らなくちゃと思った。一緒に頑張らなくちゃと思った。義理とか義務とかなんてものではなく、隣にいて一緒に走らなくちゃと思った。


結局初日はお産まで至らず、夜になって僕は帰宅した。ヘロヘロに疲れて。

深夜に妻からメールがあって、陣痛促進剤が効いてきてつらいつらいと訴えられたのだが、僕はそのメールには気づかずに寝ていた。


翌日、病室に行ったところ、促進剤がきいてきた妻は、絶賛走ったりマッサージしてもらったりしていた。そんでもって、僕も走った。よしここは音楽だ、バスドラ四つ打ちにシンセ音をアドリブでセッションするぜ、と思い、スマホアプリを起動したところ、妻からうるさいと言われた。そうだっけ、この人シンセの音嫌いなんだっけ。


じゃあまあ、走るか、と思って走った。


そのうち、仕事を思い出したのだが、さすがに病室でノートPCを広げるのはどうかと思い、廊下に出て座り込んで仕事していたら、看護師さんに怒られた。


先生がやってきた。妻はつらいと訴えた。


「喋れるうちは、まだ本番じゃない」


みたいなことを言って、先生は去っていった。


昼を過ぎても、なかなか進まない。やがて、悲鳴のような声が聞こえてくる……隣の部屋から。

妻は後から、この時に自分は悲鳴をあげていたのではないかと心配していたが、全然そんなことはなく、周囲の声のほうが激しかったし、そんなもん気にしなくてもいいじゃんと思った。


しばらくして先生が来たが、今度は妻は何の反応もしなかった。それどころではなかった。先生が来たことにも気づいていないようだった。


「お、ようやく、本番になってきたね」


そういうことらしかった。


らしかったのだが、そこから先に進まない。更にしばらくしても進まない。

進まないので、先生たちが相談して次の手(なんだっけ)を打つために、分娩室に移動してくださいという話があったところで、破水した。


あら、大変。


慌てて分娩室に移動。14時頃だったと思う。


そして色々頑張った。まあ、頑張りましたよ。僕は隣にいて、先生に言われるがままに手を握ったり、さすったり、肩を貸したりしていただけだけど。


産声は、みごとなものだった。


産まれた時は、あれ?これで産まれたの?本当?大丈夫?何か忘れてきていない?っていう感じだけれど、そんなことより、子供の声が元気いっぱいで、なんだこいつ、なんだこいつ、と思いながら、お父さんこっちこっちと言われて体重測る機械のところに近づいたところ、産まれたばかりの小さな生物が、手足をバタバタとさせて助産師さんの服のポケットをつかもうとしていた。


なんだ、こいつ。なんだこの生命力、と思った。


生命力に溢れた小さな生き物がいきなり出現したという印象だった。


すげーと思うと同時に、楽しくなってきた。こんなすごい生き物が、この先どんなことをやらかしてくれるんだろうと考えると、楽しくなってきた。


16時頃。体重は2890g。男児誕生。


彼はそのまま小児科の先生に囲まれて連れていかれた。


その後は……出産経験がある人なら分かると思うが、後産と言って色々処置をしたり、とりあえず母親は休んだり、というのが待っていた。

胎盤とへその緒を見せてもらった。こんな太くて丈夫なものなのかと驚いたし、胎盤をビローンと広げて見せてもらったところ生レバーのようだったので、これを食べる野生動物はいるだろうなと思った。

ところが妻はこのあたりのことを全然覚えていないらしい。それだけ疲れていたのだと思う。


先生がやってきて「いやあ、良いお産だった」と言ったのが印象的だった。


なぜなら、僕もまったく同じことを思ったから。


お産に付き添った経験なんかなかったけれど、これは良いお産だというのが素人から見ても分かった。スポーツに縁のないひとがプロの選手のプレイを見たら分からないながらに「これは良いものだ(マ・クベの壺並)」と感じるのと同じことだと思う。


いや、プレイとかじゃないけどな。
























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