書いていて思うこと

この節はダウン症とはあまり関係なく、書き手としてのもやもやである。

とはいえ、子育ての流れ的なものと無関係ではないので、これもまた本編の一部と言ってよいのだろう。


このエッセイは今どこにいて、どこに向かっているのか。


息子が生まれて6年経った。息子は来年小学生になる。

ようやく6年だ。成人するまでの期間を考えたら、まだ半分にすら達していない。

僕たちは今どこにいて、どこに向かっているのだろうか。

成人になった息子は、自立して生活できるようになるのだろうか。

いやなってもらわないと困るんだけど。自立というか、色々な人や制度に助けてもらってもよいので、彼が生活できるようにしないといけない。


などということは、育児をしていたら普通に直面することで、違いがあるとしたら、子供がどのくらいの年齢になったら目を離せるかという問題でしかなく、この問題もどちらかというと親のほうの気の持ちようである割合が高い。


そうなると、育児エッセイというのは、どう進むものなのだろうか。


その時その時の近況を書き綴るタイプがまずある。

育児が一通り終わったあたりで回想して書くタイプもある。


だけどそもそも何のため?


子育てを始める前や始めたばかりは、普通の子育てエッセイ・漫画や、ダウン症児の子育てエッセイをそれなりのおもしろく読んでいて、実際に参考になることも多かった。

このエッセイも、記録と情報共有を兼ねて始めたようなものだ。

今、子供が小学生を迎えるに当たって思うのが、「他人の話聞いても、わかんねーな」ということである。


たとえば、先日書いた支援学級と支援学校についてだが、地域によってはそもそも支援学校という選択肢がない場合がある。ふと思い立って僕の実家の近辺の状況を調べたのだが、市内に小学部がある支援学校はなかった。多分隣の市にいかないといけなくて、送迎バスがあるのかどうかも分からない。

支援学級にしても、結局担任の先生の技能に依存してしまうため(これは普通学級に通う普通の児童の教育でも同じかもしれないが)、よい支援学級もあればいまいちな支援学級もあるようだ。聞いた情報を総合するに。

だから、結局、育児は各論。


さらに息子はADHDも併発している。ダウン症のうち数パーセントくらいはそういう子供がいるらしいが、逆に言えばその程度の割合の稀少例でしかない。同じく、ダウン症で自閉症を併発している子供も少ないがいるらしい。

稀少例の事例は、それはそれでみんなの目につくところに置いておいたほうがよいよねと思う反面、参考にはならんだろうなあとも思う。


ならば僕はなぜこれを書いているのだろう。書く意味があるのだろうか。


ていうか、物書きの端くれとして、ついつい考えてしまうのが、「これ、どういう落としどころで落ちにしようか」という問題だ。落し方がさっぱり分からん。

いわゆる「大落ち」以前に、一巻はどこで区切りになるのだろう的な区切りも分からない。

それがなんとも気持ち悪い。


気持ち悪いけれど、しかたがない。


落としどころなんてものはないのである。

ただ続く日々を乗り切るしかないのである。

その中でつらいことも楽しいこともあって、でもなるべくなら楽しいことが多い方がよいね、というか、同じイベントがあっても楽しく受け止められるとよいね、なんてことを考えながら、やっぱり延々と続く日々を乗り切るしかない。


この歳にして、自分は何のために生きているのか、などという中二病的なことを考えることもあるが、無駄な考えでしかなく、延々と続く日々を黙々と乗り切るしかない。


性格的に黙々と乗り切ることには慣れているはずだ。


だから僕は黙々と日常をこなす。


それでいいんじゃないかと思う。





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