第8話 家庭の事情

 稲葉の家は、結構な金持ちだ。

 元々は大きな会社を経営していたらしいのだが、バブル崩壊後の不況の煽りを受けて会社は倒産、一時は住んでいた家も売り払い、田舎の祖父母の家に家族で身を寄せいていたそうだ。


 それを救ったのが、当時五歳だった稲葉の姉、美咲みさきさんだった。

 五歳の時、子役としてデビューした美咲さんは、とあるバラエティー番組の司会に気に入られ、レギュラー出演が決定、その後番組のヒットと共に他のバラエティー番組でも引っ張りだことなる。


 それから小林家の生活は、一気にまた裕福な物へと戻った。

 その後、美咲さんはタレントとしての仕事を続けながら大学まで卒業し、現在は都内や地方にいくつもの飲食店を経営するやり手実業家になっている。


「最近、美咲さんは忙しいのか?」

 稲葉が買ってきたポテトチップスを食べながら俺は聞く。

「テレビに出る仕事より『実業家』としての仕事が面白くてたまらないらしいよ。あ、もうポテチないじゃん」

 稲葉の手が次の袋に伸びたのを俺は制した。


「夕食食べられなくなるから、もうやめようぜ」

「それもそっか」

 稲葉は俺の言葉に素直に従った。


「しかし、稲葉は毎月仕送りはいくらもらってるんだよ」

「小遣いというか、クレジットカード渡されて好きに使っていいって言われてるし、現金が欲しければその都度言えば貰える。光熱費とかは全部姉ちゃんの口座から引き落とされる」

「ちょ、なんだよそれ。俺仕送り8万で残りバイトだぞ」


 羨ましいというか、次元が違いすぎてもはや嫉妬すら起こらない。

 ちなみに両親は美咲さんがタレントとして成功してからは一切働いておらず、現在の稲葉の学費も全て美咲さんが出している。


 要するに、小林家は現在、大黒柱でもある美咲さんの絶対王政らしい。


 当の美咲さんは、家族全員自分に頭が上がらない現状が気に入っているらしく、弟である稲葉を随分と溺愛し、事あるごとに甘やかそうとしてくるそうだ。


「姉ちゃんの甘やかしは際限が無いから、全部言う通りにしていると、駄目人間になる未来しか見えない……姉ちゃんには感謝してるけど、正直、早く自立したい」

 深いため息と共に稲葉は言った。


 そしてここからが本題なのだが、そんな美咲さんは、弟である稲葉の事は溺愛しているが、恋愛対象は女らしく、男には全く興味が無いそうだ。


 結果、孫が稲葉と美咲さんしかいない祖父母や、両親のひ孫、孫の期待は、稲葉へと向けられる。


 そして高校一年のあの日、稲葉は再会してしまった。

 幼い頃、結婚の約束をしたと言う幼馴染と。


「まあ、あいつの本当の狙いは姉ちゃんの方で、最終的に姉ちゃんとくっついたからそれはいいんだ」

「いや、どういうことだよ」

 俺のツッコミをよそに、問題はその後だと稲葉は続ける。


 稲葉が年頃の女の子に言い寄られていたらしいという話を母から又聞きしたらしい祖母は、そうか稲葉ももうそんな年頃なのかと大層喜ぶと共に、稲葉にもそういう相手ができれば安心だと周囲に漏らしたらしい。


 それが良くなかった。


 既に美咲さんの経営する飲食店は祖父母の住む地域でも結構有名なチェーン店だったし、美咲さんは結婚して子供を作る気は無く、代わりに彼女に大層可愛がられているという弟は相手を探している。


 つまり、稲葉と結婚すれば、その子供は跡目として一生安泰、結婚した相手方の家も、美咲さんから公私共に様々な恩恵が受けられる。


 と、尾ひれが付きまくった話がその地方で広まった結果、稲葉の元に上は二十歳、下は十二歳と、様々な嫁候補が色んな方法で紹介された。


 そしてそこから稲葉の昼ドラばりのドラマティックな高校生活が始まった訳だ。


 その時に紹介された当時まだ小学六年生だった木下しずくという少女がいる。

 祖父母の地元でスーパーマーケットを展開している企業の社長の娘さんらしい。

 地元で絶大な地盤を持つその会社の社長は、最近勢力を拡大している美咲さんの飲食店チェーンをどうにか身内に引き入れたいらしい。


 話が来た当初は、まだ二人とも子供なので話だけ、という形だったが、それは他の家へのけん制の意味合いが大きかった。

 そしてそんな彼女は現在高校一年生となり、法律的に結婚できる歳になり、今度改めて両家で会う事になった。

 というのが今回の話のいきさつらしい。


「美咲さんはなんて言ってるんだよ」

「姉ちゃんは俺が嫌だって言えば多分何も言わないだろう」

 俺の問いかけに事も無げに稲葉は返す。


「あのグループは地元での影響力は絶大だが、あくまでそれはあの地方だけに限定されてる。今回の話が物別れになって、最悪あの地方から完全撤退する事になったって、都内がメインのうちとしては、そこまで致命的な痛手にはならないだろうし」

 肩をすくめながら稲葉が答える。


「第一、今時十二かそこらで勝手に親から結婚相手決められて結婚なんて時代錯誤だろ。高校生なんてこれから好きな人とかできて楽しい時期だし、すぐ結婚なんてことにならなくても婚約って事にになれば同じだ。あ、お茶おかわり」

 ペットボトルのお茶を稲葉のコップに注ぎながら、なんだかんだいって俺と稲葉は住む世界が違うことを実感する。


「今回の話が流れた所で、すぐ他の話が持ち上がるだけかもしれないけどさ、あの子にも親が勧めてくる相手が必ずしも良い奴とは限らないって知るきっかけ位にはなるだろ」

「随分相手の子を気にかけてるんだな」

 俺が高校の時、小学生で住んでいる地域も違うはずなのに、やたら稲葉の周りをうろちょろしていた少女の事を思い出した。


「一応しずくちゃんは小学生の頃から知ってるからな。良い子なんだけど、周りの言う事をそのまま鵜呑みにしてしまうきらいがある。だから今回必要なのは、100%あちら側に非が無い、俺の個人的な問題でこの話を破談にする理由なんだ。あと特定の相手がいる事にしたらもう少し俺の周りも色々平和になるだろうしな」


 そこまで聞いて俺は一応確認をしておく事にした。

「……なあ、例えば、もし、仮に、しずくちゃんが本当にお前の事好きだったら、どうすんの?」

「そんなのありえないだろ。仮にそうだとしても、なんていうかあの子は妹みたいな感じだから、そういう相手には見れないというか」


 その言葉を聞いて、俺は小さく息を吐いた。


「……なるほど、つまり今回は、俺とお前でしずくちゃんをドン引きさせて諦めさせればいいんだな」

「ん? なんか今不穏な言葉が聞こえたぞ? 結婚前提で付き合ってる恋人ですって俺の姉ちゃんと両親に紹介するだけで良いんだぞ?」


 少し焦ったように言う稲葉は言うが、なぜ恋人を紹介する程度であの相手が引き下がると思うのか。

「お前、高校の時色んな奴から度々誘惑だけじゃなく、何度か誘拐もされそうになってたけどさ、しずくちゃんも人を雇ってお前をしずくちゃん家に連れ去ろうとしたことがあったの、忘れたのか?」

 どんな教育をすれば、あんなギラギラした目で稲葉を誘拐しようとする子供が育つのだろうと俺は当時を思い出していた。


「だからアレは親から言われてそういうものだと思いこんでた結果だろ」

 稲葉は事も無げに返す。

 なんだろう、この伝わらない感じは……。

 俺は、稲葉と俺の決定的なズレを強く認識した。


「長期休みの度にお前の所にやってきては後ろにくっついて、『ああ、稲葉お兄ちゃんの汗の匂い……』とか、コートの中に腕つっこんで『お兄ちゃんの中あったかい』とかやってたよな」

「あの子は人懐っこいんだよ」

「他の奴にはしてなかっただろ」

「人見知りなんだよ」

「謝れ、全国の人見知りに謝れ」


 アレを相手にするのかと考えながら、稲葉の認識の甘さに、俺は既にこの話に乗った事を後悔し始めていた。

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